< 2024年05月 >
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
過去記事
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 8人
アクセスカウンタ
QRコード
QRCODE

2011年09月18日

遠州森のまつり・歴史編_2

遠州森のまつり・お祭り前の話題。
森のまつりの歴史編、シリーズ_2 です。

文中の絵 : 森の石松 屋台遊び
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作

歴史編_1 からの続き・・・

遠州森のまつり・歴史編_2現在でこそ、「絶対無事故」、「終了時間の厳守」という名目の元に、規律と統制の取れたお祭りが行なわれていますが、当時は、喧嘩、泥酔、終了時間の無視など、「喧嘩まつり」という異名を履き違えたものとなっていたのです。
私が子供の頃の昭和40年代も、こうした流れは続いていて、明け方に屋台格納、1~2時間後には朝祭りへ出発・・・ といったことがまかり通っていました。

その中の問題の一つとして、「三島神社・御祭禮」神事である神輿の「渡御」・「還御」、「舞児還し」の遂行中の、氏子六社と準氏子社との妨害争いがありますが、この問題は、渡御・還御に関しては昭和29年、舞児還しに関しては昭和49年以降、全社参加という形式に変更され、後に解消となっています。
現在では、氏子・準氏子という区分けこそあれ、全社を挙げての祭典運営が成されています。

そんな中で、昭和44年の祭典で「警察官暴行事件」が起こってしまいました。
これを重く見て、翌年には「祭典本部」の設置や、町内統一の「肌襦袢」の着用、「祭典規約」の改定などが行なわれ、問題は改善されたかに思われました。 しかし、その矢先・・・ 昭和48年での祭典では、不幸な死亡事故が2件発生してしまい・・・ この時はさすがに、翌年からの祭典の開催はかなり危ういものとなってしまいました。

翌昭和49年、祭典本部を中心に祭典の大改革が行なわれ、それまで「若衆」の長である「社長」が全面的な責任を担っていたのを、「中老会」の長である「頭取」も担うこととなり、「頭取会長」を頂点とした祭典本部の組織もこの時に確立され、「十二章七十七条」から成る「祭典規約」が成立しました。

この年は、50回を数える改革会議が祭典直前まで行なわれたそうで、当時の関係者の尽力があってこそ、現在のお祭りが成り立っているわけで、このことは、私たちの胸の内に刻み込んでおかなければならないことだと思います。

祭典の運営形式も一部変更され、祭典初日に三島神社にて行なわれる屋台清祓いは、それまで夕方から氏子六社のみが宮入りしていたのを、準氏子社を含む全十社が宮入りし清祓いが行なわれるように変更。 やがて、現在のように神社境内にて、「森のまつり・開始宣言式」の式典が執り行なわれるようになります。

そして「舞児還し」も、前述したように全社参加という形式に変更されました。
舞児」は、それまで氏子社各町内から四名、「乙女神楽舞」として三島神社へ仕えるという形式で、舞児還しは、その四名の町内の社に加えて、二社が露祓いという形で行なわれていましたが、この年から、六名の「浦安舞」を新設し、共に三島神社へ仕えるという形式を取り、全十社での舞児還しの実現、という形に至りました。

これまでに記述したように、十社の町内で行なわれていた約50年間、森のまつりは激動の時代を経て来たと言っても過言ではないかと思います。
そんな中、時代も流れ、森町内も町の中心部から郊外の地へ居を移す人たちが増えてきました。
そうした流れから、新たな町内会も出来、屋台建設及び祭典参加という流れになっていきます。

にほんブログ村 その他生活ブログ 祭り・イベントへ

まず、昭和55年には、本町、仲町に仲間入りして祭典に参加してきた「大門」が「鳳雲社」の設立と屋台購入(後に新築)、同年、昭和48年に誕生した新しい町内会・「西幸町」が「龍生社」を設立し屋台新築、共に同年より祭典参加。

昭和59年には、栄町町内会の南部地域が「南町」として分離独立、翌60年に「湧水社」を設立し屋台の新築と共に、同年から祭典参加。
そして、昭和62年には、それまで約50年間、下宿と共に桑水社を運営してきた「栄町」が桑水社から分離独立し、「藤雲社」を設立し屋台の新築と共に、同年から祭典参加。

遠州森のまつり・歴史編_2舞児は、鳳雲社・龍生社の加入時には、浦安舞が同二社の加入に伴い二名増となり、湧水社・藤雲社の加入時には、「朝日舞」が一名ずつ加わり、平成9年には「人長舞」という大人舞が新設され、後に朝日舞は男児舞に変更されて、現在に至ります。

新たな参加ではありませんが、平成5年には比雲社が現在の屋台を新築と共に、仲町の町名が「仲横町」に改められています。

余談ではありますが、屋台高欄後方に付けられた町名の看板があるのですが、昭和61年まで桑水社の後方看板は、「下宿・栄町」となっていましたが、同年でそれも観納め・・・ 当時の写真を観る時がありますが、そのたびに感慨深い気持ちになります。

これにより、前述の四社が既存の氏子六社に加わり「氏子社・十社」(比雲社・北街社明開社水哉社・鳳雲社・龍生社・湧水社・藤雲社・桑水社・沿海社)、「準氏子社・四社」(谷本社凱生社睦栄社慶雲社)の十四社での祭典運営となり、現在に至ります。

紆余曲折を経てきた森のまつりも、現在では、参加十四社の規律と統制の取れた、勇壮な屋台の曳き廻しや練り、舞児による舞の奉納や、(渡御・還御)御渡り、そして舞児還しの神事など、歴史と伝統の中で町民に愛され、守られながら行なわれています。

2回シリーズに渡って、森のまつり・歴史編を書き綴ってきましたが、自身の回想や、森のまつり関係書物を参考にした独自視点での内容になりますので、確実性には欠けているかもしれません。

もっと詳しくお知りになりたい方は、こちらのブログカテゴリー「お祭りの歴史・屋台・法被」をご覧いただくか、森のまつりホームページ内に、大庭学氏(下宿出身・東京在住)著作の「森の祭りの歴史」が掲載されておりますので、こちらも是非ご覧になってください。

次回からは、参加十四社の紹介編に移っていきます。

遠州森のまつりまで、あと47日・・・
にほんブログ村 その他生活ブログ 祭り・イベントへ






人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ ブログ王
同じカテゴリー(お祭り前の話題)の記事
遠州森のまつり
遠州森のまつり(2016-11-03 13:12)


Posted by 遠州森のビープロ at 00:11
[お祭り前の話題]
この記事へのトラックバック

■ <%PingTitle%>

<%PingExcerpt%>

<%PingTitle%>【<%PingBlogName%>】at <%PingDateTime%>
この記事へのコメント

■ 鈴木 淳

お祭りの歴史を楽しみにしています。
昭和46年に森町を離れたので、それからの歴史は知りませんでした。4年前から森の祭りに行くようになって初めて屋台が多くなったことに驚きました。苦しい時代を知らずに良い時代になってからこそ森の祭りの伝統に感激しています。これからは、各町内の屋台をゆっくり見学したいですね。なんとなく屋台が大きくなっているような気がしました。これからの話題を楽しみに待っています。

Posted by 鈴木 淳 at 2011年09月18日 13:41

■ 遠州森のビープロ遠州森のビープロ

コメント、ありがとうございます。
現在、小さい町内のお祭りが、これだけマスコミ等でも取り上げてもらえるほどのものになったのは、歴史と伝統に加えて、先人の方々の努力と苦労があってこそのものだと感じております。
今後とも、よろしくお願いします。

Posted by 遠州森のビープロ遠州森のビープロ at 2011年09月19日 22:19