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2006年01月16日

「森のまつり」14町内の屋台“谷本社”

森のまつり、「14町内の屋台」紹介、第8弾は、“谷本社”(城下町内会)です。

城下がいつ頃から屋台を引き回していたかは定かでない。相当古くから屋台を所有しており、確かな文献としては明治初期に屋台があったことは立証されている。
しかし、その屋台の製作年は全く不明であり、もしかすると森町村同様、江戸時代に城下村単独で屋台を引き回していた可能性も否定できないのである。

次に新築された屋台、つまり先代の屋台は明治25年、町内の工匠金子作次郎の手によってつくられたことは、このほど明らかになった。(現在菊川で活躍中)

「森のまつり」14町内の屋台“谷本社”

現在の屋台は昭和57年、やはり町内の工匠、鈴木久一、戸塚由夫、岩本三郎という3人の名匠によって造られ、彫刻は富山県井波の彫刻協同組合の彫刻師たちによって彫られた。

祭り見物に釆た人に「どの屋台が一番豪華な屋台か?」とたずねると「谷本社」と答える人が多いという。
おそらく車輪にも金具が施こされ、皇族方の御所車を思わせる事から、そう答えるのであろう。

実はこの車輪、先代の屋台に使用したものを使っている。
なぜ、先代の車輪を使っているのだろうか?それ程価値のあるものだろうか?

第3次屋台新築期(昭和53年から平成5年)に造られた屋台のうち、睦栄社、水哉社、龍生社、湧水社、慶雲社、藤雲社、鳳雲社の車輪を造ったのが、森町が生んだ名車大工、角千代3代目・村松利雄である。
そして谷本社の車輪は村松利雄とその父親、2代目・村松梅太郎の2人の手によって造られた森町に1つしかない車輪なのである。

それにしても、引き回しの荒い森の屋台の車輪を2代に渡って使えるとは、よほどこの車輪はつくりが良いのであろう。角千代の職人技に脱帽である。

次に屋台本体の特徴であるが、普通屋台の本柱は4本で構成されているが、谷本社は左右側面の中心にも柱があり、本柱6本という特殊な構成となっている。
本柱6本は14社中ただ1社の特徴である。

では、井波彫刻協同組合の彫刻師たちが約10ケ月を費したという彫りを見てみよう。

前後左右の欄間には、御祭神・素戔嗚尊や大照大神(あまてらすおおみかみ)が登場する神話がその画題となっており、支輪には十二支、木鼻は獅子と獏(ばく)、そして脇障子には外敵を寄せ付けないという外にらみの龍と虎がいる。

なんといっても一番の特徴は左右御簾脇の“手長足長”である。
手長足長とは「山海経」という中国の昔の本の中に出てくる想像上の人物、または仙人と思われ、日本では内裏(だいり)の清涼殿という天皇の居る部屋の障子に描かれ、天皇の長寿を願ったのが始まりだと考えられている。
森の屋台では他に沿海社の右欄間に彫られているだけであるが、他の地区の祭りの屋台には良く見られる画題である。

ちなみにこの“手長足長”の彫りは先代の屋台の画題を継承しているが、よく見ると若干の違いがある。
右の御簾脇の足長が現在のものは遠くを見るように右手をおでこにかざしているが、先代のものは腕を組んでいる。
いずれにしても「手長足長といえば谷本社」というほど、この屋台にはよく似合う。(余談)

地図はこちら

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“湧水社”(南町町内会)の紹介です。





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