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2006年02月13日

「森のまつり」14町内の屋台“比雲社”

森のまつり、「14町内の屋台」紹介、しんがり(第14弾)は、“比雲社”(仲横町町内会)です。

文久3年の古文書によって本町、新町、上川原町、下川原町、そして中町の屋台があった事は明らかであるが、いずれもその屋台の製作年は不明である。
明治19年から26年にかけて第1次屋台新築期が起き、比雲社の先代の屋台は明治25年に造られている。
続いて大正11年から昭和11年にかけて第2次星台新築期が起き、各社屋台を新築しているが、比雲社だけは新築せず、平成5年に現在の屋台が出来るまで実に1世紀に渡って引き続けたのである。

「森のまつり」14町内の屋台“比雲社”

旧屋台は金守神社に保存されており、現在も見ることが出来るが、屋台のあちこちに見られるキズには、森の祭りの歴史と喧嘩祭りの凄まじさが刻み込まれている。
喧嘩祭りというのは人が喧嘩することではない。屋台がぶつかり合うから喧嘩祭りというのだ。
狭い道で屋台同士がはち合うと手木をぶつけ合い、屋台をぶつけ合って互いに道を譲らなかったという。
また“練り”の時は、屋台と屋台の間にちょっとでもすき間があれば、犀台ごと突っ込んでいくから恐ろしい。これが“森の喧嘩祭り”なのだ。

さて、現在の屋台は平成元年9月、大庭政吉を委員長とした屋台建設委員会を発足させ、平成5年10月、屋台と彫刻が完成した。
屋台本体は栄町の工匠・山本庄平の天才的な技術によって造られ、彫刻は富山県の井浪彫刻協同組合の彫刻師たちによって彫り上げられた。
井浪に於いて彫刻師たちと屋台建設委員との綿密な打ち合わせの結果、決められた彫刻の画題が実にいいから紹介しよう。

先ず右の御簾脇には三嶋神社の御祭神である大山津見神(おおやまつみのかみ)がいる。
日本書記の神話によると大山津見神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)との間に生まれた神であり天照大神(あまてらすおおみかみ)とは兄弟である。

左の御簾脇には大山津見神の妻である鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)がいる。この鹿屋野比売神は野槌神(のづちのかみ)といい、野の守護神である。

正面欄間には、女性が赤ん坊を抱き、その横でおじいさんがうれしそうに酒を飲んでいる、という構図になっている。
酒を飲んでいるのは大山津見神、女性は娘の木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)であり、赤ん坊はその子供で穂々手見命(ほほでのみこと)である。
つまり、正面欄間の赤ん坊は大山津見神の孫なのである。

脇障子には御簾脇の両神を外敵から守るため、外睨みのを配し、後欄間には鳳凰、支輪には四季の花鳥が彫られている。
木鼻には8頭の獅子がおり、支輪の四つ角からは獏(ばく)が四方に向かって首を出している。
慶雲社、藤雲社、北街社の支輪の四つ角からは龍が首を出しているが、ここに獏を配しているのは比雲社だけである。
獏といってもアリを喰う動物園のバクではない。悪夢を喰うとされている中国の想像上の動物である。

なんといっても比雲社最大の特徴といえば左右欄間の「刃龍」である。龍は普通3本の爪を持っているが比雲社の龍は4本爪である。なぜ4本爪なのだろうか?
そもそも龍は亀、鳳凰、麒麟(きりん)とともに四端のひとつとされ、角は鹿、頭はラクダで眼は鬼、うなじは蛇で、うろこの数は鯉と同じ、手は虎で鷹の爪を持つという想像上の動物である。
更に龍には位(くらい)があり、位が高い程龍の爪の数が増えるという。3本爪は平民、4本爪は大将、5本爪は皇族となっており、中国の皇帝のいた部屋のじゅうたんとカーテンには5本爪の龍の刺しゅうが施こされていた。
比雲社旧屋台の天幕は大正12年、皇太子殿下(昭和天皇)の御成婚を祝して新調されたため、位の高い4本爪の龍の刺しゅうを施したのである。
だからこの龍を継承して左右の欄間に4本爪の龍を彫ったとこういうわけである。

天幕は東京白木屋呉服店に作らせたものであるが、大正12年といえば関東大震災のあった年であり、東京は焼け野原と化したはずである。
ところが、龍の刺しゅうをするために京都に出してあったために天幕は助かったというのだ。
比雲社の龍はよほど運が強いとみえる。

ちなみに、東京白木屋呉服店は後に白木屋デパートとなるが、経営不振に陥り、ホテルニュージャパンの火災を出した横井英樹に買収される。
更にその後、東急電鉄に買い取られて、現在の日本橋東急デパートとなったのである。(余談)

最後に金具の説明を什け加えておこう。
金具はすべて手造りで欄間と支輪の間の本桁の木口には四神をあしらっている。東に青龍(せいりょう)、西に白虎(びゃっこ)、南に朱雀(しゅじゃく)、北に玄武(げんぶ)という四方神である。見事だ。
豪放、優美、豪華、典雅、どんな言葉でこの屋台を表現したら良いのだろうか。

更に特筆すべきは、中町の鋳物師・岡野五郎三郎である。
岡野家は戦国時代より鋳物業を営んでおり、山岡七郎左衡門の「上金谷」に対し、始祖・岡野与三右衛門の「下金谷」と云われたほどである。
その岡野五郎三郎が明治20年から明治末期まで書き記した日記によって、今まで空白であった明治時代の祭典の様子が明らかになった。
日記には、当時の町の様子や屋台の運行、“だし”の名称などが克明に記されている。
明治時代の記録が少ないだけに実に貴重な資料である。
岡野五郎三郎氏に感謝申し上げたい。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。





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