2006年02月04日
「森のまつり」14町内の屋台“北街社”
森のまつり、「14町内の屋台」紹介、第13弾は、“北街社”(新町町内会)です。
屋台の沿革、祭りの歴史については江戸時代から明治初期にかけての資料が少なく、空白が多すぎて明確に把握することは困難であるが、現存する資料をもとにして北街社の屋台を追ってみよう。
明和6年(1770年)の地方文書(じかたもんじょ)「新町人別帳」によれば、三嶋神社の祭礼が行われていたことは立証されているが、屋台の引き回しが行われていたかどうかは不明である。
資料の内容からしておそらくこの当時はまだ屋台は無かったものと思われる。そして文久3年(1863年)の大事件の時には新町の屋台があったことは確かである。
これを仮に北街社初代の屋台として、この屋台は明治14年に掛川の伊達方に売却されている。
そして2代目の屋台は明治26年に新築されている。
ということは明治14年から26年までは屋台がなかったことになる。
ところが、明治21年の記録には、北街社の屋台が確実に登場しているのだ。
おそらく初代屋台を売却した後、すぐには屋台を新築することが出来ず、荷車的屋台で代替をしていたのだろう。しかし、これを裏付ける資料は全く無い。
それ以後の資料はしっかりとしており、北街社3代目、つまり先代の屋台は昭和4年に新築されている。
あの屋台、彫り共にまだ記憶に新しいところだろう。
平成3年に飯田の若宮団地に売却され、現在も活躍中であるが、「なぜ、あんないい屋台を売っちまったんだ。俺に金がありゃぁ買ったよ」という声を未だに聞く。
現在の屋台は平成4年に南町の名匠・寺田勝郎がその工匠技術を十二分に発揮した会心の作である。
この屋台は他社にはない特徴が随所に生かされている。
先ず高欄下の浜緑板であるが、四方の角が神社、仏閣の屋根の様に斜め上方にそり上がっている。
そしてその下には数本の木が斜めに組まれ、まるでドミノを倒したような形になっている。
更に後手木は鈎状にカットされ、中央が高くなる様に削られているのである。
北街社屋台の最大の特徴といえば、先代の屋台からの形を継承する欄干にある。
なぜ、14社中1社だけ欄干の真中が開いているのだろうか?それは単なるデザインではない。
本殿がしっかり造られている神社であれば必ず欄干があり、神様の出入りの為に正面が開いている。
つまり、北街社の欄干も神社にならい、神様を受入れる為に真中が開いているというわけである。
先代の屋台の新築当初、「舞児が落ちたらどうするんだ!」などの批判をされたが、もちろん舞児を落としたことなど一度も無い。
ちなみに「日本3大祭り」の一つ“秩父の夜祭り”の山車はすべて欄干の真中が開いている。
森の祭りも「日本3大祭り」の一つに数えられたいものである。(余談)
では次に屋台彫刻である。第3次屋台新築期(昭和53年~平成5年)に於いて水哉社、沿海社(支輪のみ)、慶雲社、藤雲社、そしてこの北街社のすべての彫りを彫り上げた北陸の天才・志村孝士の傑作をご紹介しよう。
先ず左右の欄間には唐子、後欄間には龍、そして支輪には二十四孝を配し、支輪の四ツ角からは龍の首が四方に突き出している。これらはすべて先代の屋台とは違う。
しかし正面はすべて先代のものを継承し、正面欄間に芝温公の甕割り小僧(かめわりこぞう)、左右の御簾脇には風神・雷神、そして脇障子は松に干し網を配している。
谷本社御簾脇の手長足長同様、北街社御簾脇の風神雷神は、社の特徴を写し出すインパクトが非常に強い。
谷本社の手長足長は先代のものを継承し、ほとんどその図柄は変わらないが、北街社の風神雷神は先代のものとは大きく変えている。
鳳雲社の風神雷神は京都三十三間堂の二十八部衆像をその手本にして吉江立最が彫り上げたものに対し、北街社先代の風神雷神は葛飾北斎の描く絵を手本にして早瀬利三郎が彫ったものである。
そして現在の風神雷神は仏像や鬼を基本に志村孝士が独自に作り上げた自信作であるという。
どっしりと厚みのあるその彫刻は北街社の守り神にふさわしいといえるだろう。
最後に木鼻であるが、ここも先代のものを継承して獅子を配してある。
後木鼻は獅子の持つ玉の中が動く“篭彫り”となっており、しかも、その玉は緑色に着色され、更に金箔を散りばめてあるという手の凝りようである。
志村でなければこんな事は出来まい。
森の屋台において、志村孝士最後の作品である。
進行係
北街社の特徴はまだある。それは進行係のうまさだ。
大正時代は“交渉員”といい、大正14年、交渉具に青提灯(緑の進行提灯)の携帯を義務付けられ、昭和15年に”進行係”と改名されている。
更に昭和25年の大当番会議では”進行係にあらざる者は徒に交渉の防害になる言動は絶対なさざる事”とその絶対権限が決められているのである。
いつ頃から“練り”が行なわれたのか定かではないが、屋台を練りの中心に置き、かつ次の行動に出易い位置に屋台を付ける。
これが進行係の腕の見せどころであり、北街社はいつもいい位置にいる。
そして屋台の動きが速い。
先代の屋台ならともかく、新しい屋台は大き過ぎてそうは速く動かせない。と思ったがやっぱり速い。
これはもう進行係の腕というより、進行係と手木係の技であるといっていい。
大きく豪華な屋台を素速く動かす。これが北街社の引き方なのだろう。
こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。
次回は、“比雲社”(仲横町町内会)の紹介です。
Posted by 遠州森のビープロ at 22:17
[お祭りの歴史・屋台・法被]
[お祭りの歴史・屋台・法被]
この記事へのトラックバック
<%PingExcerpt%> |
<%PingTitle%>【<%PingBlogName%>】at <%PingDateTime%>