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2005年12月31日

「森のまつり」14町内の屋台“明開社”

森のまつり、「14町内の屋台」紹介。
第3弾は、“明開社”(明治町町内会)です。

明治町には急激に人々が増え、明治22年、初代屋台を新築(又は購入)した。

森町村に於て祭りは一大イベントである。
屋台は町の象徴であり、町民の意識をまとめる事のできるかっこうの材料であったといえる。

明治18年に産声を上げた町が、そのわずか4年後に屋台を造るとは、明治町の人々の祭りに対する気持ちと、町民の心を一つにまとめようとする意識の高さがうかがえる。

社名は読んで字のごとし、明治時代に開かれた社として明開社と命名された。

「森のまつり」14町内の屋台“明開社”

現在の屋台は昭和9年に製作され、明治町の加藤三郎の設計により、同町の小栗富太郎、新町の内藤新平ら数名の工匠が担当した。
塗師は、初代松村定助、彫刻は、沿海社と同じ早瀬利三郎である。

さて、その早瀬利三郎の作品を紹介しよう。

右の御簾脇には、天宇受女命(あめのうずめのみこと)が鏡を差し出し、左の御簾脇には、手力男命(たぢからおのみこと)が岩戸を開いている。

正面欄間には、鐘馗神が豆をまき、後欄間には、浦島太郎が子供たちから亀を助けている。
更に支輪には、それぞれの顔を持つ龍が所せましとひしめく。

そして、この屋台彫刻の1番の特徴は、左右の脇障子にある。

右の脇障子には、雷連太鼓を海に落としてしまった雷神が、錨をおろして太鼓を拾おうとしている。
左の脇障子には、太鼓を拾おうとした雷神が雲から落ちて、蜘蛛(くも)の巣にかかってしまったという彫りになっており、この彫刻図柄の原図は町内、安西壮一の考案であるという。

ユーモラスなセンスの良さがうかがえる。

昭和2年に沿海社と慶雲社が屋台を新築し、昭和4年に北街社、続いて昭和9年にこの明開社が新築した。

昭和初期を代表する4社すべてに川瀬利三郎の作品がつけられ、更に4社すべての塗りを川原町の天才塗師・初代村松定助の手によって施されている。

当時、オンポロ家屋の多かった森町に於て、この4社は美しい物として人々の目に写ったのである。

地図はこちら

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“凱生社”(天宮町内会)の紹介です。





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