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2006年10月25日

遠州森のまつり “おまつりの歴史・江戸文久編”

いよいよカウントダウンに入ってきた、遠州森のまつり

今日から、おまつりの歴史について紹介をしていきたいと思います。
なお、紹介文は、“森の祭り”ホームページより引用となります。

第一弾は、“江戸文久編”

遠州森のまつり “おまつりの歴史・江戸文久編”文久3年に本町と下宿が大喧嘩をしたことは有名である。
何が原因で喧嘩になったのかは諸説があるが、その中で“おはやし”が原因で大喧嘩になり訴訟問題にまで発展したのではなかろうかという言伝え話をここで再現してみる。
多少事実と異なるかと思われるが、小説的に涜んでいただきたい。

森の祭りは三嶋神社を祀るものであってその歴史は古く、その年の豊作の御礼と来年の五穀豊穣を祈願しての神事であった。
遠州森のまつり “おまつりの歴史・江戸文久編”
それが現在のような屋台の引き回しが行なわれたのは森町が大繁盛し始めた江戸時代中期頃からではないかと考えられている。
そして森の喧嘩祭りが世にその名を馳せたのは文久3年(1863年)に起きた本町と下宿の喧嘩であり、これを世にいう文久の大喧嘩と言うものであった。

それではここで江戸時代にタイムスリップしてみよう。

秋葉街道の要衝として森町の玄関口であった本町は大いに栄えた。
現在の岡田屋から文誠堂あたりまでの両脇に“旅籠屋”が多く軒を連ね、その昔旅籠町(はたごちょう)と呼ばれていた。
そして現在の下宿通りを中心に民家が点在し、下町(しもまち)と呼ばれていた。
その後、町が衰退し始めると旅籠町からその旅籠屋が姿を消し、下町には大黒屋という由緒正しい旅館がその宿の姿を残したものだから下宿と、その町名を改められた。

ではその大黒屋がどれほど由緒正しかったかと言うと、昔、皇族方が掛川に行くから宿を取れと宮内庁に命じた。
当時掛川には小さな旅籠屋はたくさんあるが皇族方を迎えるような旅館はなかった。
慌てた宮内庁では必死になって探し、森まで足を伸ばして大黒屋を見つけ「この旅館なら申し分ない」と言って皇族方を案内した。
皇族方は大黒屋のもてなしと森町の風情に感激し、宮内庁の担当官は胸を撫で降ろしたという。
天皇こそ宿泊していないが、大黒屋に代々伝わる宿帳に記載されている事実である。

さて本町は旅籠屋と古着屋で大繁盛した町であり自然と金がある。
しかし、下宿は職人と百姓の町であり職の無い人も多く、下宿の連中はだんだんと本町の商人に使われるようになってきた。
つまり本町は使う側、下宿は使われる側という主従関係にあったのだ。
江戸時代には小さな村でも町同志の部落意識が強くあり、町々には順位を付け、その順位を巡って絶えず論争が行なわれていた。
子供が一人で隣町へ行こうものなら石をぶつけられた程であるという。

本町は金と権力にものを言わせ、この村を取り仕切る町として常に一位の座にあった。
一方下宿は本町に使われる身であり、何事においても本町の指図を受ける立場であったのだ。
しかし、年に一度の祭りだけは無礼講である。
下宿はここぞとばかりに威勢を上げて部落意識は更に高まり、屋台の引き回しにその意識は色濃く写し出されるのである。 続く・・・

・・・続きは、“森の祭り・歴史・江戸文久編” にてご覧下さい。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。





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