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2006年02月04日

「森のまつり」14町内の歴史“北街社(新町)”

森のまつり、「14町内の歴史」紹介、第13弾は、“北街社”(新町町内会)です。

「森のまつり」14町内の歴史“北街社(新町)”新しく出来た町だから新町というが、その歴史は以外に古い。
では、いつ頃から町名を名乗るようになったのだろうか。森町村の歴史は江戸時代とともに始まる。

慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。
この頃森村は川端の場所であったため、太田川の水害に見舞われることが多く、村民が地頭所に願い出て太田川流域の大改修が行われ、森町村が造られた。

村を新たに町割することになり、先ず大きくふたつに分けて下町と上町が出来た。下町とは後の本町のことである。
次に正保4年(1647年)に上新町と下新町との町立てが行われ、上新町は現在の新町のことであり、下新町とは岡田屋から文誠堂までの通りで、後に旅籠町と呼ばれる町である。

その後、さらに整備されて本町、中町、横町、新町となったわけである。
従って新町は森町村に後から出来た新しい町ではなく、森町村成立と同時に出来あがった町なのである。
森町村は村とはいえ町場としての機能を有しており、森地域の拠点的な位置を占めていた。
村の全盛期ともいうべき文政13年(1830年)の家数・人別書上によれば、家数は合わせて358軒、そのうち百姓は141軒、旅籠屋は24軒もあり商家はなんと149軒もあったのだ。
新町に何軒の商家があったのか明らかでないが、呉服屋、古着屋、質屋など相当多くの商家が新町表通りに店を構えていたという。

明治以降森町村が衰退し始め、旅籠屋や商家がだんだんとその姿を消していく中、新町には更に商店が増え続け、とりわけ“新町銀座”といわれる程に成長していくのである。

又、新町を作り上げたのは商人だけではない。明治21年より41年迄、森町高等小学校の校長を勤めた柚木金太郎や、明治24年、仲町に森町病院を開設した東京大学医学部卒業の医学博士・猪原吉郎など、多くの偉人をこの町から出している。

地図はこちら

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“比雲社”(仲横町町内会)の紹介です。





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■ うりぼう

こんにちは。突然ですんが、私は猪原吉郎氏の実弟吉次郎のひ孫に当たるものです。現在、名古屋市に在住しております。2ヶ月前に持病が悪化し、国内では東大でしか治療不可能のため上京、「東京大学医学部附属病院」に入院しました。ここが、吉郎氏が在籍していたところか・・・としばし感慨にふけっていました。皆さん知っているかもしれませんが、吉郎氏は、小説家でも有名なあの森鴎外(本名:森林太郎)と東大医学部時代、同窓生だったのです。林太郎氏はその後軍医となり、ヨーロッパに渡り小説も書きはじめ後に文豪とし有名になりました。一方、吉郎氏は卒業後、静岡県立病院の医院長として赴任したようです。なお、弟の吉次朗も東大を卒業後、海軍兵学校の文官教授となり、その後、東京商科大学の教授となり日本の将来を担う若者の育成に骨を折ったようです。

Posted by うりぼう at 2006年05月05日 14:06