2009年09月29日
大河ドラマ・天地人 第39回「三成の遺言」
NHK大河ドラマ・天地人。
今週のOAは、第39回「三成の遺言」。
時は慶長5年(1600年)秋。
関ヶ原の戦いでの決着の報を聞いた上杉軍は、最上攻めを中止し撤退することになります。
自らが殿(しんがり)を務めた直江兼続。
兵を退きながらの兼続の脳裏には、関ヶ原での敗軍の将となってしまった、盟友・石田三成の姿がよぎっていました・・・
反撃を掛けてくる最上軍を何とか抑え、満身創痍ながらも領国・会津へと辿り着いた兼続。
出迎えた主君・上杉景勝も安堵の表情・・・
家臣たちも兼続を労いながら出迎えます。
関ヶ原での決着が着いてしまった今となっては、気懸りなことは二つ。 一つは、敵方の大将・徳川家康との今後の対峙、そして、もう一つは北と西で共に戦い、そして敗れた三成のことでした。
三成はその頃、捕らわれの身として家康が陣を張る大津城に護送され、門前にて生き曝しにされるという屈辱を受けていました。
次々に登城してくる、徳川方の武将たち・・・ 福島正則には罵声を浴びせられ、土壇場で裏切り行為を働いた小早川秀秋には、恨み節を告げるしか術はありませんでした。
その後、三成は城内で家康と対面。 詮議を受けることになります。
三成は、諸将の面前で「強い者、勝つ者が常に正しいと限らぬ」と、きっぱりと言い放つのです。
負けてもなお、「正義は我にあり」という三成の主張は、未だ大義を持って戦う姿勢が貫かれていました。
しかし、その主張も虚しく慶長5年10月1日、京・六条河原にて斬首・・・ 41年の生涯を閉じたのです・・・
一方、兼続は会津にて子供たちと静かに過ごしていました。
憂いは、景勝正室・菊姫に付き、大坂城に滞在している妻・お船の身。
そのお船からの手紙が届き、菊姫と共に息災である旨が知らされ、兼続は安堵の気持ちを表わすのでした。
そんな時、兼続のもとを初音が訪ねてきます。
そして、三成はすでにこの世にはいない旨を、初音から聞かされるのです・・・
大阪では、家康による戦後処理が進められていました。
敗者となった西軍の諸将にも、次々と処分が下されていき、何と豊臣家にまで減封の処分が下されます。
これには、さすがに正則や秀秋などが意を唱えてきますが、「豊臣の家名を持って東軍に弓を引いたは明白なこと」と屁理屈をこねる家康。
正則、秀秋は、ここで今更ながらに家康に付いたことを後悔するのです・・・

今週のOAは、第39回「三成の遺言」。
時は慶長5年(1600年)秋。
関ヶ原の戦いでの決着の報を聞いた上杉軍は、最上攻めを中止し撤退することになります。
自らが殿(しんがり)を務めた直江兼続。
兵を退きながらの兼続の脳裏には、関ヶ原での敗軍の将となってしまった、盟友・石田三成の姿がよぎっていました・・・
反撃を掛けてくる最上軍を何とか抑え、満身創痍ながらも領国・会津へと辿り着いた兼続。
出迎えた主君・上杉景勝も安堵の表情・・・
家臣たちも兼続を労いながら出迎えます。
関ヶ原での決着が着いてしまった今となっては、気懸りなことは二つ。 一つは、敵方の大将・徳川家康との今後の対峙、そして、もう一つは北と西で共に戦い、そして敗れた三成のことでした。
三成はその頃、捕らわれの身として家康が陣を張る大津城に護送され、門前にて生き曝しにされるという屈辱を受けていました。
次々に登城してくる、徳川方の武将たち・・・ 福島正則には罵声を浴びせられ、土壇場で裏切り行為を働いた小早川秀秋には、恨み節を告げるしか術はありませんでした。
その後、三成は城内で家康と対面。 詮議を受けることになります。
三成は、諸将の面前で「強い者、勝つ者が常に正しいと限らぬ」と、きっぱりと言い放つのです。
負けてもなお、「正義は我にあり」という三成の主張は、未だ大義を持って戦う姿勢が貫かれていました。
しかし、その主張も虚しく慶長5年10月1日、京・六条河原にて斬首・・・ 41年の生涯を閉じたのです・・・
一方、兼続は会津にて子供たちと静かに過ごしていました。
憂いは、景勝正室・菊姫に付き、大坂城に滞在している妻・お船の身。
そのお船からの手紙が届き、菊姫と共に息災である旨が知らされ、兼続は安堵の気持ちを表わすのでした。
そんな時、兼続のもとを初音が訪ねてきます。
そして、三成はすでにこの世にはいない旨を、初音から聞かされるのです・・・
大阪では、家康による戦後処理が進められていました。
敗者となった西軍の諸将にも、次々と処分が下されていき、何と豊臣家にまで減封の処分が下されます。
これには、さすがに正則や秀秋などが意を唱えてきますが、「豊臣の家名を持って東軍に弓を引いたは明白なこと」と屁理屈をこねる家康。
正則、秀秋は、ここで今更ながらに家康に付いたことを後悔するのです・・・


明けて慶長6年(1601年)、ついに家康から上杉家に上洛の命が下ります。
西軍総大将となった毛利輝元、宇喜多秀家などの処分が早々と下される中、上杉への処分のみが保留とされていたことは、家康は余程上杉を警戒していたのかもしれません。
兼続は、まずは自身と大国実頼を名代として遣わすことを、景勝に進言。
景勝も、これを了承します。
上洛した兼続と実頼は、まずは菊姫に謁見。
景勝の無事を知らされた菊姫は、安堵し胸を撫で下ろします。
そしてその夜、お船と久しぶりに水入らずの時間を過ごした兼続は、三成が大坂城にて、お船に話した言葉を聞かされました。
「また兼続と一緒に酒を飲み、楽しい踊りを踊ってみたい」と・・・
兼続は、改めて三成の無念さを噛みしめていたのです。
そんな時、兼続のもとを正則が突然訪ねてきます。
正則は、三成が城の門前で曝しものにされていたある夜、酒を持って三成の前に現れ、悪態を吐きながらも三成に酒を進めたのです。
いつの頃からか袂を別ってしまった二人でしたが、共に豊臣秀吉の小姓として仕えていた仲。 豊臣への忠義の気持ちは、共に同じだったのです。
三成から、豊臣の今後を託された正則は、「誰よりも豊臣家のことを考えていたのは三成であったのかもしれぬ」と兼続に打ち明け、秀秋にも会って欲しいと、兼続に告げるのです。
明くる日、兼続は秀秋のもとを訪ねます。
秀秋にとって、土壇場での三成への裏切りは後悔以外の何物でもないと、自らの心境を吐露。
牢に閉じ込められている三成を極秘に訪ねた時、ここから逃がして欲しいと助けを請われたことを明かします。
当然、逃がすことなど出来ず、ならばと、「生きて我らの正義を後世に伝えよ」と兼続への託けを受けたことを伝えたのです・・・
未だ叶わぬ家康との対面を前に、兼続は三成の遺言を、自らの心に噛みしめていたのです・・・
西軍総大将となった毛利輝元、宇喜多秀家などの処分が早々と下される中、上杉への処分のみが保留とされていたことは、家康は余程上杉を警戒していたのかもしれません。
兼続は、まずは自身と大国実頼を名代として遣わすことを、景勝に進言。
景勝も、これを了承します。
上洛した兼続と実頼は、まずは菊姫に謁見。
景勝の無事を知らされた菊姫は、安堵し胸を撫で下ろします。
そしてその夜、お船と久しぶりに水入らずの時間を過ごした兼続は、三成が大坂城にて、お船に話した言葉を聞かされました。
「また兼続と一緒に酒を飲み、楽しい踊りを踊ってみたい」と・・・
兼続は、改めて三成の無念さを噛みしめていたのです。
そんな時、兼続のもとを正則が突然訪ねてきます。
正則は、三成が城の門前で曝しものにされていたある夜、酒を持って三成の前に現れ、悪態を吐きながらも三成に酒を進めたのです。
いつの頃からか袂を別ってしまった二人でしたが、共に豊臣秀吉の小姓として仕えていた仲。 豊臣への忠義の気持ちは、共に同じだったのです。
三成から、豊臣の今後を託された正則は、「誰よりも豊臣家のことを考えていたのは三成であったのかもしれぬ」と兼続に打ち明け、秀秋にも会って欲しいと、兼続に告げるのです。
明くる日、兼続は秀秋のもとを訪ねます。
秀秋にとって、土壇場での三成への裏切りは後悔以外の何物でもないと、自らの心境を吐露。
牢に閉じ込められている三成を極秘に訪ねた時、ここから逃がして欲しいと助けを請われたことを明かします。
当然、逃がすことなど出来ず、ならばと、「生きて我らの正義を後世に伝えよ」と兼続への託けを受けたことを伝えたのです・・・
未だ叶わぬ家康との対面を前に、兼続は三成の遺言を、自らの心に噛みしめていたのです・・・
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Posted by 遠州森のビープロ at 22:11
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