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2006年01月16日

「森のまつり」14町内の歴史“谷本社(城下)”

森のまつり、「14町内の歴史」紹介、第8弾は、“谷本社”(城下町内会)です。

「森のまつり」14町内の歴史“谷本社(城下)”城下という町名が示す通り、城下町(じょうかまち)として古くから栄え、江戸時代には秋葉街道の要衝として大繁盛した町である。

ところがここで大きな疑問にぶつかる。城下が天方城の城下町となるにはちょっと遠すぎる。
通常ならば向天方が天方城の城下町として栄えるはずではないか。

この謎を解く為に天方城の歴史を追求してみよう。

天方城主・天方氏は、山内俊網を始祖として代々山内を名乗って来たが、10代目城主・通孝の時に天方を家号としている。
それ以後室町時代に天方本城を大鳥居に築城し、続いて谷本神社山頂の城藪に白山城(仮称)、そして武田徳川の攻防少し前あたりに天方城を築いたのではないかという見方が有力視されてきた(奈良女子大、村田修三教授)。

つまり、白山城と天方城は、天方本城を衛るための出城として建てられたのである。更に城下本通りは鋸形の町並とし、敵の攻め入るのを防いだ。従って城下は、出城としての白山城の下に、戦略的につくられた城下町なのである。

町が発展しはじめたのは森町村同様江戸時代中期以降であり、旅籠屋、商家、秋葉常夜燈等がその面影を残している。

更に明治時代には有力者が多く、明治22年以降、藤江勝太郎、藤江誠作ら数多くの森町々長を出している。

谷本神社は慶長3年(1599年)に城下村幸田八右衡門が鎮守牛頭天王を勧請し、明治4年11月、谷本神社と改称された。

御祭神は素箋鳴命(すさのおのみこと)であり、谷本社の社名は、この氏神様を祀る谷本神社から戴いている。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“湧水社”(南町町内会)の紹介です。





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