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2009年11月11日

大河ドラマ・天地人 第45回「大坂の陣へ」

NHK大河ドラマ天地人
今週のOAは、第45回「大坂の陣へ」。

時は慶長10年(1605年)春。
徳川家康は、将軍職を嫡男・徳川秀忠に譲り、自らは大御所という立場になりました。
これにより、天下は豊臣に代わり徳川が牛耳ったということを、全国に知らしめたのです。

全国の諸大名たちは、続々と秀忠の将軍職就任の祝辞を述べに、伏見城へと登城していきました。
米沢の、上杉景勝の所にもその命が届き、景勝は直江兼続を伴って上洛します。
伏見城登城に先立ち、兼続は大坂城豊臣秀頼のもとを訪れます。
そこで、淀の思いを感じ取った兼続は、この先、また戦が勃発するのではないかという、不安に駆られるのです。

その後、景勝、兼続は伏見城へ登城し、家康に謁見します。
家康への謁見後、兼続は伊達政宗の仲立ちで、極秘に秀忠からの会談を求められます。
幕府の立ち上げ後、家康の行動に焦りがあることを感じていた兼続は、その旨を秀忠に忠告。 政宗が口を慎むように制止しますが、秀忠はむしろ、兼続が率直な意見を述べてくれたことに対し、感謝の意を示します。

その後も、伏見城へは諸大名たちが祝辞を述べに駆けつけますが、豊臣は断固として登城をしませんでした。
これを心配した高台院は、このままでは豊臣を滅ぼすことになりかねないと、淀に対し忠告をしますが、淀は態度を軟化させることはありませんでした。

その後、米沢へ戻った兼続は、養子・直江勝吉の再婚話を進めていきます。
同時に、実の子である竹松に対して気遣いを見せますが、竹松は「私も、父上と同じくもみじのような家臣になりとうございます。」と告げるのです。
竹松の健気な気持ちに、兼続は複雑な思いに捕らわれていました。

そんな折、景勝母・仙桃院が病で倒れてしまいます。
病床に伏した母を見舞う景勝・・・ 余命幾ばくも無いと、自ら悟った仙桃院は、景勝に秘密にしていたことを打ち明けます。
それは、先代・上杉謙信の遺言が偽りであったということ。
驚く景勝に、「そなたは謙信公を超えている。そなたの義をつらぬけばよい。」と告げ、静かに息を引き取るのです・・・

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その後、5年の歳月が流れました。
勝吉は、徳川の命で本家・本多に呼び戻され、米沢を離れることとなりました。
立派に成長し、名を直江景明と改めた竹松に対し、勝吉は直江家の今後を託し、米沢を去っていったのです。

一方で、家康は豊臣を滅ぼす策略を練っていましたが、妙策が見つからずにいました。
そんな時、京・方広寺の鐘に「国家安康・君臣豊楽」とあることに目をつけ、謀反を企んでいるとして、秀頼に難癖をつけてきました。
直ちに申し開きをするように命じますが、秀頼(と言うより淀)はこれを拒否。 ついに、家康は大坂城攻めを決意したのです。

世が豊臣から徳川へと移り変わっていったこの時代、諸大名たちは御家の存続のため、徳川への忠義を示し始めていました。
そして、それは上杉も例外ではありませんでした。

謙信公の時代から、天下とは一部の権力者のものではなく領民たちのもの、と教えを受けた景勝と兼続・・・
家臣や領民たちを守るために、兼続たちは断腸の思いで豊臣攻めを決意したのです・・・

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Posted by 遠州森のビープロ at 22:48
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