2009年08月05日
大河ドラマ・天地人 第31回「愛の花戦(はないくさ)」
NHK大河ドラマ・天地人。
今週のOAは、第31回「愛の花戦(はないくさ)」。
時は、天正19年(1591年)。
前年より上洛をしていた、上杉景勝正室・菊姫と直江兼続正室・お船の二人は、豊臣秀吉正室・北政所や側室の淀、そして諸大名の奥方たちとの付き合いに追われていました。
夏のある日、北政所が主催したヒメサユリの花見が開かれます。
綺麗に咲き誇る、ヒメサユリの花々・・・
感銘する皆を見て、誇らしげな気分になる北政所。
そんな北政所を見ていた淀は、菊姫とお船にヒメサユリをたくさん集めるように命じます。
ヒメサユリは、越後特産の花だったのです。
越後・春日山にて知らせを受けた兼続は、早速ヒメサユリの花摘みを家臣たちに命じます。
越後の山々から摘み取られた、ヒメサユリの花々・・・
取りも取ったり、春日山城に集められた花の数は1,200本。
これらを海路で、京・聚楽第まで出荷したのです。
兼続が指示をし、忙しなく出荷の準備をしている光景を、景勝は半ば呆れ顔で見るしかありませんでした。
かくして1,200本のヒメサユリは、無事に聚楽第まで送り届けられました。
淀は、早速送られてきたヒメサユリを部屋一面に飾り付け、北政所以下皆を招待。 大名の奥方たちは淀の趣向を褒めそやします。
これには、さすがの北政所も舌を巻くしかありませんでした。
兎にも角にも、菊姫とお船の面目は保たれたのです。
数多くの秀吉の側室の中で、豊臣の跡継ぎとなる鶴松を産んだ淀に対し、奥方たちはますます取り入られていくのでした。
ところが天正19年8月、わずか3歳で鶴松が病死してしまいます。
鶴松の死に秀吉は嘆き悲しみ、甥の豊臣秀次を養子として家督を譲り、関白職まで譲って自らは太閤となったのでした。
そして、悲しみを振り払うかのように朝鮮出兵の野望を企み始めたのです。
一方の淀も、その悲しみは大きく、塞ぎ込む日々を過ごしていました。
もはや世継ぎの母でなくなった淀を、大名の奥方たちは気にかけなくなり、淀の孤独感はますます募っていったのです。
そんな淀に対し、菊姫は精一杯淀を励ますのです。
「自分も子が出来ずに悩んでいる・・・ でも塞ぎ込んでばかりいても何も始まらない・・・」 その一生懸命な心遣いに、淀の心は癒されいったのです。
明けて文禄元年(1592年)、秀吉は諸大名たちに朝鮮への出兵準備を命じます。 同年の3月、上杉軍も出兵の準備のため京に入ります。
兼続とお船、そして景勝と菊姫・・・ 二組の夫婦は、それぞれに久しぶりの再会を喜び合います。 特に菊姫は、景勝が姿を現す前からそわそわしていて・・・ 菊姫の、景勝を慕う気持ちが表れた一面でもありました。

今週のOAは、第31回「愛の花戦(はないくさ)」。
時は、天正19年(1591年)。
前年より上洛をしていた、上杉景勝正室・菊姫と直江兼続正室・お船の二人は、豊臣秀吉正室・北政所や側室の淀、そして諸大名の奥方たちとの付き合いに追われていました。
夏のある日、北政所が主催したヒメサユリの花見が開かれます。
綺麗に咲き誇る、ヒメサユリの花々・・・
感銘する皆を見て、誇らしげな気分になる北政所。
そんな北政所を見ていた淀は、菊姫とお船にヒメサユリをたくさん集めるように命じます。
ヒメサユリは、越後特産の花だったのです。
越後・春日山にて知らせを受けた兼続は、早速ヒメサユリの花摘みを家臣たちに命じます。
越後の山々から摘み取られた、ヒメサユリの花々・・・
取りも取ったり、春日山城に集められた花の数は1,200本。
これらを海路で、京・聚楽第まで出荷したのです。
兼続が指示をし、忙しなく出荷の準備をしている光景を、景勝は半ば呆れ顔で見るしかありませんでした。
かくして1,200本のヒメサユリは、無事に聚楽第まで送り届けられました。
淀は、早速送られてきたヒメサユリを部屋一面に飾り付け、北政所以下皆を招待。 大名の奥方たちは淀の趣向を褒めそやします。
これには、さすがの北政所も舌を巻くしかありませんでした。
兎にも角にも、菊姫とお船の面目は保たれたのです。
数多くの秀吉の側室の中で、豊臣の跡継ぎとなる鶴松を産んだ淀に対し、奥方たちはますます取り入られていくのでした。
ところが天正19年8月、わずか3歳で鶴松が病死してしまいます。
鶴松の死に秀吉は嘆き悲しみ、甥の豊臣秀次を養子として家督を譲り、関白職まで譲って自らは太閤となったのでした。
そして、悲しみを振り払うかのように朝鮮出兵の野望を企み始めたのです。
一方の淀も、その悲しみは大きく、塞ぎ込む日々を過ごしていました。
もはや世継ぎの母でなくなった淀を、大名の奥方たちは気にかけなくなり、淀の孤独感はますます募っていったのです。
そんな淀に対し、菊姫は精一杯淀を励ますのです。
「自分も子が出来ずに悩んでいる・・・ でも塞ぎ込んでばかりいても何も始まらない・・・」 その一生懸命な心遣いに、淀の心は癒されいったのです。
明けて文禄元年(1592年)、秀吉は諸大名たちに朝鮮への出兵準備を命じます。 同年の3月、上杉軍も出兵の準備のため京に入ります。
兼続とお船、そして景勝と菊姫・・・ 二組の夫婦は、それぞれに久しぶりの再会を喜び合います。 特に菊姫は、景勝が姿を現す前からそわそわしていて・・・ 菊姫の、景勝を慕う気持ちが表れた一面でもありました。


しかし景勝と兼続は、この朝鮮出兵に異議を抱いていました。
兼続は、秀吉側近・石田三成のもとを訪ね、朝鮮出兵をやめるよう秀吉に進言したいと頼みますが、三成は拒みます。
秀吉の鶴の一声で、諸大名たちが馳せ参じる・・・ 豊臣政権を盤石にするためと言い張る三成に、兼続は引き下がるしか無かったのです。
一方で、北政所は景勝と徳川家康に対し、秀吉自らが朝鮮に渡らぬよう監視して欲しいと頼み込みます。
秀吉を諌められるのは自分・・・ だが秀吉は、正室の自分ではなく淀を連れていこうとしている・・・
北政所は、豊臣の奥方として豊臣を守ることを二人に託したのです。
そして、上杉軍は徳川軍などと共に肥前・名護屋城に布陣。
一年に渡る待機の後、秀吉から出兵の命が下りました。
「この戦は、女子(おなご)たちの花戦に似ている・・・」
景勝が、ぽつりと兼続に語りかけました。
「この戦に何の意味があるのか、意味の無い戦で無駄な血を流さなければならないのか・・・」
景勝と兼続は、虚しさを感じながらも無事に戻ってくることを誓い、朝鮮へと渡っていくのでした・・・
天下統一を果たし、泰平の世を迎えた矢先の朝鮮出兵・・・
秀吉のこの野心が、結果として豊臣政権を短命とするものになってしまいました。 実弟・豊臣秀長、実子・鶴松の死など、不幸が重なったこともありますが、この朝鮮出兵は、景勝が吐いた言葉そのもので、何の意義があったのか計りかねるところです。
綺麗な花を豪華に敷き詰め、自己満足に浸ってもただそれだけのこと。
後に残るのは、虚しさだけ・・・
(特に秀長の死で)天下人・秀吉を、強く諌められる参謀が居なかったことが、致命的となってしまったのかもしれませんね・・・
兼続は、秀吉側近・石田三成のもとを訪ね、朝鮮出兵をやめるよう秀吉に進言したいと頼みますが、三成は拒みます。
秀吉の鶴の一声で、諸大名たちが馳せ参じる・・・ 豊臣政権を盤石にするためと言い張る三成に、兼続は引き下がるしか無かったのです。
一方で、北政所は景勝と徳川家康に対し、秀吉自らが朝鮮に渡らぬよう監視して欲しいと頼み込みます。
秀吉を諌められるのは自分・・・ だが秀吉は、正室の自分ではなく淀を連れていこうとしている・・・
北政所は、豊臣の奥方として豊臣を守ることを二人に託したのです。
そして、上杉軍は徳川軍などと共に肥前・名護屋城に布陣。
一年に渡る待機の後、秀吉から出兵の命が下りました。
「この戦は、女子(おなご)たちの花戦に似ている・・・」
景勝が、ぽつりと兼続に語りかけました。
「この戦に何の意味があるのか、意味の無い戦で無駄な血を流さなければならないのか・・・」
景勝と兼続は、虚しさを感じながらも無事に戻ってくることを誓い、朝鮮へと渡っていくのでした・・・
天下統一を果たし、泰平の世を迎えた矢先の朝鮮出兵・・・
秀吉のこの野心が、結果として豊臣政権を短命とするものになってしまいました。 実弟・豊臣秀長、実子・鶴松の死など、不幸が重なったこともありますが、この朝鮮出兵は、景勝が吐いた言葉そのもので、何の意義があったのか計りかねるところです。
綺麗な花を豪華に敷き詰め、自己満足に浸ってもただそれだけのこと。
後に残るのは、虚しさだけ・・・
(特に秀長の死で)天下人・秀吉を、強く諌められる参謀が居なかったことが、致命的となってしまったのかもしれませんね・・・
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Posted by 遠州森のビープロ at 21:27
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