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2005年12月29日

「森のまつり」14町内の歴史“沿海社(川原町)”

森のまつり、「14町内の歴史」紹介。
第2弾は、“沿海社”(川原町町内会)です。

「森のまつり」14町内の歴史“沿海社(川原町)”江戸時代、三嶋神社は宮山といわれ、現在の沿海社屋台小屋あたりを宮下といわれていた。

宮下より川原町通り中程までを上川原町、それより下を下川原町(現在の下宿)と呼んでいたのである。

上川原町と下川原町は狭い小路はあったものの、全く別の町であった。

明治中期頃、道巾を広げて一本の道路とし、下川原町は下宿となり、上川原町は川原町となったわけである。

下川原町が農家中心の町であったのに沈べ、上川原町は職人の町であった。
大工、車大工、彫刻師、漆職人、瓦職人など様々な職人がその腕を振るっていた。

川原町通りより南方の太田川沿いは鬱蒼たる竹藪であったが、おそらく堤防のかわりに竹薮を培養したのであろう。

さて、社名の由来であるが、太田川を海にみたてて“海に沿える社”即ち沿海社と名付けられたのである。
太田川を海というにはあまりにも大袈裟だと思うかもしれないが、案外そうでもない。

当時の太田川は水量が豊富であり、明治初期頃までは福田まで舟が往来していた。
森町村の古着商たちはこの舟を使って商いをし、巨万の富を築いたのである。
太田川を海と見立てたというのも納得できる。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“明開社”(明治町町内会)の紹介です。





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