2009年10月08日
大河ドラマ・天地人 第40回「上杉転落」
NHK大河ドラマ・天地人。
今週のOAは、第40回「上杉転落」。
時は慶長6年(1601年)。
関ヶ原の戦いの後、敗れた西軍諸将に対し、東軍総大将・徳川家康からの処分が、次々と下されていきました。
そして、上杉にも上洛の命が下り、上杉景勝、そして直江兼続は大坂へと赴きます。
家康との対面を前に、兼続がまず行なったこと・・・
ある夜、家康家臣・本多正信のもとを訪れます。
兼続は、正信に対し、娘・お松と正信次男・本多政重との婚儀を提案。 政重を婿養子に迎え、直江家の家督を継がせるというもの。
「徳川と上杉の間に繋がりが出来れば、双方にとっても好都合なはず。」 「これをして、上杉への厳罰を軽減して欲しい・・・」
と、正信へ条件提示をしたのです。
兼続は、上杉を存続させるために、自ら泥を被る決心をしたのです。
「しばらく考えるいとまが欲しい・・・」と、正信は返答を一旦保留します。
自屋敷に戻った兼続は、妻・お船にその旨を打ち明けます。
「嫡男・竹松の立場は・・・」と、当然のごとくお船は強く反発。 そんなお船に対し、「苦しみは自分が一身に引き受けなければならない」と、苦しい胸の内を明かし、竹松の不憫さを案じながらも、お船も了承したのです。
そして、景勝と兼続は大坂城へ登城。 家康に謁見します。
徳川譜代家臣や、福島正則ら豊臣恩顧の諸将が居並ぶ中、家康はその面前で上杉に謝罪を求めます。
それに対し、景勝、兼続は、「義は我らにあり。」と謝罪を拒否。
ここでの謝罪拒否は、厳罰をも免れないことを意味するもの。 しかし、上杉の義の心、誇りを捨ててまで、家康に平伏すことなど、出来ることでは無かったのです。
この始終を見ていた正則は、上杉を救うことを決意。 小早川秀秋にも相談を持ちかけます。
土壇場で西軍を裏切り、責任を感じていた秀秋は、淀の方を頼り、上杉を救う働きかけをして欲しいと頼みます。
淀は、豊臣秀頼を伴って家康を呼び出し、上杉への処分軽減を訴えます。
しかし、家康はこれを拒否。 退席しようとする家康に、今度は秀頼が声を掛けます・・・

今週のOAは、第40回「上杉転落」。
時は慶長6年(1601年)。
関ヶ原の戦いの後、敗れた西軍諸将に対し、東軍総大将・徳川家康からの処分が、次々と下されていきました。
そして、上杉にも上洛の命が下り、上杉景勝、そして直江兼続は大坂へと赴きます。
家康との対面を前に、兼続がまず行なったこと・・・
ある夜、家康家臣・本多正信のもとを訪れます。
兼続は、正信に対し、娘・お松と正信次男・本多政重との婚儀を提案。 政重を婿養子に迎え、直江家の家督を継がせるというもの。
「徳川と上杉の間に繋がりが出来れば、双方にとっても好都合なはず。」 「これをして、上杉への厳罰を軽減して欲しい・・・」
と、正信へ条件提示をしたのです。
兼続は、上杉を存続させるために、自ら泥を被る決心をしたのです。
「しばらく考えるいとまが欲しい・・・」と、正信は返答を一旦保留します。
自屋敷に戻った兼続は、妻・お船にその旨を打ち明けます。
「嫡男・竹松の立場は・・・」と、当然のごとくお船は強く反発。 そんなお船に対し、「苦しみは自分が一身に引き受けなければならない」と、苦しい胸の内を明かし、竹松の不憫さを案じながらも、お船も了承したのです。
そして、景勝と兼続は大坂城へ登城。 家康に謁見します。
徳川譜代家臣や、福島正則ら豊臣恩顧の諸将が居並ぶ中、家康はその面前で上杉に謝罪を求めます。
それに対し、景勝、兼続は、「義は我らにあり。」と謝罪を拒否。
ここでの謝罪拒否は、厳罰をも免れないことを意味するもの。 しかし、上杉の義の心、誇りを捨ててまで、家康に平伏すことなど、出来ることでは無かったのです。
この始終を見ていた正則は、上杉を救うことを決意。 小早川秀秋にも相談を持ちかけます。
土壇場で西軍を裏切り、責任を感じていた秀秋は、淀の方を頼り、上杉を救う働きかけをして欲しいと頼みます。
淀は、豊臣秀頼を伴って家康を呼び出し、上杉への処分軽減を訴えます。
しかし、家康はこれを拒否。 退席しようとする家康に、今度は秀頼が声を掛けます・・・


「家康、上杉を救ってくれ!」 この秀頼の言葉には、家康も耳を貸さない訳にはいきませんでした・・・
「今の秀頼様のお言葉、内府殿もお聞きになられましたな!」すかさず、正則も助け船を出したのです。
家康は、正信ら譜代の家臣と改めて上杉の処分に関しての談義をしますが、その席で、正信は兼続からの直江家との婚儀の申し入れの件を話し、それを受け入れるつもりだとの旨を、家康に伝えます。
これにより、家康の腹は決まったのです。
後日、改めて家康に謁見した景勝、兼続主従は、会津120万石より米沢30万石への減移封を申し渡されます。
秀頼、淀の方や、正則、秀秋といった豊臣恩顧の諸将らの計らいによって、上杉は御家の断絶を免れた訳ですが、これも兼続の捨て身の働き掛けや、上杉の誠実なまでの義と誇りが、こういった結果を生みだしたのかもしれません。
後日、会津に戻った兼続は、家臣たちに米沢への移封の旨を伝えます。
石高が4分の1になるわけですから、召し放される者もいるかもしれない・・・ 不安にかられる家臣たちに対し、兼続は次のように伝えます。
「殿を信じ、ついてくる者たちは誰一人召し放ちはいたさぬ。すべて面倒をみる。」 「とはいえ、不自由な暮らしとなるは必定ゆえ、去りたい者は申し出るが良い。今後の身の振り方について相談に乗ろう」 と・・・
そして、米沢へと出発となった朝、兼続が庭に出てみると・・・ 家臣全員の姿がありました。 家臣たちの忠義に、感極まる兼続・・・
こうして兼続は、家臣6千と共に米沢へと向かうのでした・・・
「今の秀頼様のお言葉、内府殿もお聞きになられましたな!」すかさず、正則も助け船を出したのです。
家康は、正信ら譜代の家臣と改めて上杉の処分に関しての談義をしますが、その席で、正信は兼続からの直江家との婚儀の申し入れの件を話し、それを受け入れるつもりだとの旨を、家康に伝えます。
これにより、家康の腹は決まったのです。
後日、改めて家康に謁見した景勝、兼続主従は、会津120万石より米沢30万石への減移封を申し渡されます。
秀頼、淀の方や、正則、秀秋といった豊臣恩顧の諸将らの計らいによって、上杉は御家の断絶を免れた訳ですが、これも兼続の捨て身の働き掛けや、上杉の誠実なまでの義と誇りが、こういった結果を生みだしたのかもしれません。
後日、会津に戻った兼続は、家臣たちに米沢への移封の旨を伝えます。
石高が4分の1になるわけですから、召し放される者もいるかもしれない・・・ 不安にかられる家臣たちに対し、兼続は次のように伝えます。
「殿を信じ、ついてくる者たちは誰一人召し放ちはいたさぬ。すべて面倒をみる。」 「とはいえ、不自由な暮らしとなるは必定ゆえ、去りたい者は申し出るが良い。今後の身の振り方について相談に乗ろう」 と・・・
そして、米沢へと出発となった朝、兼続が庭に出てみると・・・ 家臣全員の姿がありました。 家臣たちの忠義に、感極まる兼続・・・
こうして兼続は、家臣6千と共に米沢へと向かうのでした・・・
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Posted by 遠州森のビープロ at 18:38
[歴史ドラマ諸々]
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この記事へのコメント
大河ではずいぶんひどい描かれ方をされてきた小早川秀秋ですが、今回はけっこういい人に描かれてましたね 最後の最後に勇気を振り絞ってくれた感じですね |
Posted by ぱる at 2009年10月10日 16:24
確かに、裏切り者のレッテルを貼られてしまった小早川秀秋ですが、天下分け目の大戦で、しかも勝利軍と敗軍では天国か地獄かの違いがあるわけですから、決して責められるものではないですよね。 若くしてこの世を去ってしまったのは、大変惜しまれることですが、最後に豊臣のために行動を起こしてくれたことは、嬉しく感じました。 |
Posted by 遠州森のビープロ
at 2009年10月12日 21:40
