大河ドラマ・天地人 第38回「ふたつの関ヶ原」
NHK大河ドラマ・
天地人。
今週のOAは、第38回「ふたつの関ヶ原」。
時は慶長5年(1600年)。
上杉征伐の名目で、
会津の南、
下野・
小山まで進軍していた
徳川家康は、上方での
石田三成挙兵の報を聞き、西へと引き返すことを決めます。
福島正則らを先鋒隊とし、家康自らは居城・
江戸城に赴いて、西の三成、東北の
上杉景勝の動向を探っていました。
そして、
上杉を会津にくぎ付けにするため、
伊達政宗、
最上義光らに出兵することを促します。
直江兼続ら上杉軍も、
最上軍との戦の準備を整えていました。
その頃、
福島隊が三成方の
岐阜城を落としたという報が家康のもとに届き、期は熟したと察した家康はいよいよ動き出します。
自らは東海道を西へと進軍し、嫡男・
徳川秀忠の軍を中山道へ差し向け、三成方に付いた
真田軍の討伐を命じます。
ところが、2万5千の秀忠軍は僅か2千の真田軍に敗退・・・ 秀忠軍を撃破するため、奇策を講じていた
真田昌幸、
幸村親子が、見事に秀忠の大軍を足止めさせたのです。
上田城での真田勝利の報を聞いた上杉軍は、より一層士気を高めます。
景勝は、最上攻めに自らも出陣する意思を示しますが、「総大将は城に構えるべき」と兼続に諭されます。
かくして、兼続ら上杉軍は、最上攻めへと出陣していきました。
一方、
美濃・
大垣城に居た三成のもとには、家康討伐の呼びかけに応じた諸将が集結。
三成方・西軍総大将、
毛利輝元は
豊臣秀頼公保護の名目で、
淀君と共に
大坂城に構えていました。
そして、いよいよ家康軍本隊が大坂城を目指し進軍、大垣城に攻め込むかと思われましたが、それを回避するルートを取ろうとしてきたため、三成率いる西軍はこれを阻止しようと陣を敷き、両軍は
関ヶ原で向き合う形となったのです。
奥羽では兼続率いる上杉軍が、最上方の
長谷堂城を包囲していました。
そして運命の9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍が激突。
天下分け目の、
関ヶ原の戦いが勃発したのです。
時を同じくして、奥羽でも上杉が長谷堂城攻めを開始。
この日、関ヶ原と奥羽のふたつで、大戦の火蓋が切って落とされたのです。
午前8時頃に始まった関ヶ原の戦いは、正午頃までは両軍一歩も譲らぬ膠着状態・・・ 西軍は、石田三成隊や
宇喜多秀家隊、
大谷吉継隊や
小西行長隊など、東軍は、福島正則隊や
黒田長政隊、
細川忠興隊などが主として動いていました。
西軍総勢10万に対し、東軍は秀忠隊の遅れもあって7万5千。
加えて、東軍を三方から取り囲むように
鶴翼の陣を敷いていた西軍としては、
小早川秀秋隊、
島津義弘隊、
毛利秀元隊などが加勢し総攻撃を仕掛ければ、勝利は決まったようなものでした。
しかし、
小早川、
島津、
毛利共に一向に動く気配がありませんでした。
小早川、島津は、家康へ内応していて、毛利も内応していた
吉川広家に道を阻まれ、参戦出来ずにいたのです。
しびれを切らした三成は、秀秋の陣へ出向き加勢を促しますが、秀秋は言葉を濁すだけ・・・
逆に家康から、寝返りを催促するための威嚇射撃を喰らった秀秋は、ついに参戦を決意。 大谷隊に攻撃を仕掛けてきたのです。
よもやの小早川の裏切りに、驚愕する三成・・・
これをきっかけに、西軍は混乱し形成は逆転。 三成家臣・
島左近などが、捨て身となって反撃をしますが、もはや焼け石に水。
三成は、敗走を余儀なくされてしまうのでした・・・
一方、長谷堂城を取り囲んでいた兼続ら上杉軍は、景勝の参陣でより士気が高まり、落城も間近なところまで来ていました。
そこに舞い込んできた、一通の報・・・ 三成率いる西軍が大敗したとの報を受けた兼続らは、兵を退くことを決意します。
関ヶ原の勝敗を知って反撃をしてくる最上軍に対し、兼続は自ら
殿(しんがり)を務め応戦。
兵を退きながら兼続の脳裏には、共に家康を倒そうと誓った、三成の姿がよぎっていたのでした・・・
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