大河ドラマ・天地人 第37回「家康への挑戦状」

遠州森のビープロ

2009年09月16日 23:55

NHK大河ドラマ天地人
今週のOAは、第37回「家康への挑戦状」。

時は慶長4年(1600年)。
天下人・豊臣秀吉が没し、天下の情勢に暗雲が立ち込めるようになってきました。

次の天下人として目された、徳川家康の専横は更に増し、石田三成との対立はもはや避けられないものとなり、天下分け目の大戦がいつ始まってもおかしくないという情勢でした。

会津に戻っていた上杉景勝直江兼続は、領内の整備を進めていました。
会津に国替えとなって2年、領国の早急な国作りが急務となっていたのです。

折りしも、この年は亡き上杉謙信公の23回忌。
鶴ヶ城内で法要が営まれ、景勝、兼続、そして仙桃院らが参列。
旧領・越後に居残っている仙桃院から、春日山城主・堀秀治上杉の謀反を疑っていると聞き、兼続らは家康の動きに更なる警戒心を募らせずにはいられませんでした。

程なくして、景勝のもとに家康からの書状が届きます。
内容は、「上杉に謀反の疑いあり、直ちに上洛して申し開きをするように・・・」
というもの。
前年、加賀前田を屈伏させたのと同じ手口で、上杉へも仕掛けをこうじてきた家康に対し、景勝は上洛する気はないと一蹴。
兼続は、家康への返書をしたためることになります。
この返書が、世に言う「直江状」です。

書状には、上杉には謀反の心など微塵も無いということはもちろん、私利私欲のために天下を我が物にしようと企んでいる家康への痛烈な批判がしたためられていました。
上杉の存亡を賭けた、家康への挑戦状であったのです。

書状を読んだ家康は激しく怒り、上杉討伐へと立ち上がりました。
譜代の家臣をはじめ、豊臣恩顧の諸将たちにも声を掛け、反石田三成派の大名たちがこれに従い、一路東へ・・・
一方の兼続は、会津の南、白河の革籠原に防塁を築き、家康を迎え撃つ準備を進めます。
敵軍をこの防塁に誘い込み、一気に叩くというもの。 兼続は家臣たちに、「この戦は義の国を築くための最後の試練だ」と告げるのです・・・

 
一方、佐和山城の三成は越前敦賀城主・大谷吉継を密かに呼び寄せ、家康討伐に立ち上がることを打ち明けます。
三成と吉継は、秀吉小姓時代からの盟友。
三成の決意に、吉継も共に戦うことを誓うのです。
かくして三成は、毛利輝元を総大将として大坂城へ入り、豊臣秀頼公を奉じて家康討伐へと挙兵したのです。

三成挙兵の報は、すぐに下野小山まで進軍していた家康の耳にも入りました。 知らせを受けた家康は、諸将たちと軍議の上(小山評定)、三成を討つため大坂へと引き返すことを決めます。
家康の動向を探っていた上杉にもこの報は届き、兼続は、家康を挟み撃ちにする絶好の機会と景勝に進言しますが、景勝は「敵を背後から討つのは義に背く・・・」と応じません。

仮にここで家康を討っても、天はいずれ自分たちを見放す・・・
というのが景勝の持論。
理想はそうだとしても、当家が滅びれば何も残らない・・・ と反論する兼続を全く受け付けようとせず、場に一触即発の緊張感が走ります。
「どうしても行くと言うのなら、わしを斬ってから行け!」
この言葉には、さすがの兼続も逆らうわけにはいきません。
北から攻め込もうとしている、最上からの守りに就くと、兼続はその場を去って行きました・・・

理想と現実・・・
確かに、兼続の主張通りに背後から家康を攻めれば、充分に勝算はあったはずです。 しかし、代々上杉は義に背く戦いはしてこず、それは謙信公の教えでもあったのです。
どんなに追い込まれても、景勝は最後まで上杉としての理想を貫こうとしていたのです。
そして、兼続も最終的にはそれを受け入れる形になったのです・・・

かくして、家康が進路を西へ、そして三成が東へと進み、美濃関ヶ原での天下分け目の戦いが始まろうとしていたのです・・・

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