大河ドラマ・天地人 第33回「五人の兼続」
NHK大河ドラマ・
天地人。
今週のOAは、第33回「五人の兼続」。
時は、文禄4年(1595年)。
上杉家家老・
直江兼続は、家中の重大な仕事のほとんどを取り仕切るようになっていました。
当主・
上杉景勝は、兼続に対し執政になることを命じます。 それは、家中の全ての取り仕切りを任せるということであり、景勝の兼続に対する信頼度が窺い知れるものでもありました。
同時に景勝は、「兼続のような者が五人いてくれたら・・・」と、主として政(まつりごと)を取り仕切る難しさと、国主として時代を乗り切っていくことの大変さを感じていたのでした。
その頃、京では
関白・
豊臣秀次が、
太閤・
豊臣秀吉から謀反の疑いを掛けられ、切腹を命じられるという事件が起こっていました。
上杉家にもこのことが伝わり、兼続は真相を確かめようと単身
越後から京へと向かいます。
高野山へと幽閉された秀次は、僅かその7日後に切腹・・・
兼続が京に着いた時には、既に秀次は切腹をした後でした。
拾(後の豊臣秀頼)が産まれてからというもの、秀吉は拾を溺愛するあまり、周囲が見えなくなっていたのです。
豊臣家、そして日本の行く末を案じた兼続は、秀吉の真意を正すため
石田三成に面会を求めますが、三成はこれを拒否。
二度、三度と三成のもとを訪ねる兼続でしたが、三成は理由を付けては面会を拒み続けていました。
兼続は、秀吉どころか三成の真意までも計りかねていたのです。
そして、秀次と懇意にしていた大名たちも謀反の疑いを掛けられ、その中には
伊達政宗も含まれていました。
切腹も免れぬと思われていた政宗でしたが、
徳川家康が
北政所に働きかけたことにより、政宗は無罪放免。
家康は、何故政宗を庇ったのか・・・ これは、後の時代が証明してくれることになります・・・
その後、秀次の一族も罪をきせられ、三条河原にて一族全員が処刑。
その様子を見ていた兼続は、居ても立ってもいられず立ち会っていた三成の所に行こうとしますが、そこに初音が現れ制止を受けるのです。
初音から、「石田様は、太閤様の非難を全て被って矢面に立っておられる。その苦しみを分かって欲しい。」と告げられ、兼続は思い止まるのです。
改めて、三成と会って話し合いをしたいと思った兼続は、
伏見城へ登城。
しかし、やはり三成は面会を拒否。
失意のまま帰ろうとした兼続は、偶然秀吉と居合わせます・・・
久しぶりの兼続との対面を喜び、兼続を招き入れた秀吉は、此度の秀次への処分は秀吉自身の独断であったこと、嫡男である、僅か3歳の拾を関白にしようとしていることを打ち明けます。
そこに、三成が現れ・・・ 「三成から、秀次の一族への処分だけは思い止まって欲しいと進言されたが、謀反人の一族は根絶やしにするべきと処分を断行した。」と、秀吉は続けるのです。
三成は、全ての罪を自分の罪とし、ひたすら沈黙をしていたのです。
そして、それは徳川家康、
前田利家ら重臣たちが一堂に会した席でも、顕著に表れるのです。
秀吉は、諸大名たちを呼び寄せ、拾への忠誠を誓う起請文を提出させました。
秀吉が座を辞した後、まずは家康が三成に対し、秀次事件への責を激しく非難。 それに乗っかるように、
毛利輝元、
小早川隆景なども責め立ててくるのです。 前田利家は、沈黙を貫き通し・・・
それに意義を唱えたのが、普段は寡黙さを貫いていた景勝でした。
景勝は、「主の責を家臣に負わすのは筋違い。」と一喝。
さすがの家康も、引き下がら去るを得ませんでした。
三成の苦難を案じた兼続は、国政を合議制にすることを三成に提案。
秀吉にすべての権力を集めようとしてきた三成は異を唱えますが、「罪を被ることだけが忠義ではない。」という兼続の説得に三成も合意し、二人で夜を徹して制度案を練り上げました。
その制度案とは、秀吉を頂点としてその下に数名の大老、更にその下に数名の奉行を置き、大老、奉行たちの合議で国政を取り仕切るという、画期的なものでした。
兼続と三成は、練り上げた制度案を秀吉に提出。
しかし、ワンマン政治を貫いていた秀吉が素直に受け入れるはずもなく・・・
そこに助け船を出したのが、前田利家でした。
利家は、秀吉にとって古くからの懇意の仲。 三成、兼続の熱意のある説得に利家の助言があっては、秀吉も受け入れざるを得なかったのです。
こうして、後の
五大老、
五奉行制度の元となる制度が成立。
諸大名による、大老・奉行の署名が執り行なわれました。
喜ぶ、三成と兼続。 三成は、改めて兼続の友情に感謝の意を表すのでした。
新たな合議制度が確立し、後は幼年の拾が成長して、秀吉の跡を継ぐ体制が整えばという段階となったある日、秀吉が突然病に倒れてしまいます・・・
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