大河ドラマ・天地人 第31回「愛の花戦(はないくさ)」
NHK大河ドラマ・
天地人。
今週のOAは、第31回「愛の花戦(はないくさ)」。
時は、天正19年(1591年)。
前年より上洛をしていた、
上杉景勝正室・
菊姫と
直江兼続正室・
お船の二人は、
豊臣秀吉正室・
北政所や側室の
淀、そして諸大名の奥方たちとの付き合いに追われていました。
夏のある日、北政所が主催した
ヒメサユリの花見が開かれます。
綺麗に咲き誇る、ヒメサユリの花々・・・
感銘する皆を見て、誇らしげな気分になる北政所。
そんな北政所を見ていた淀は、菊姫とお船にヒメサユリをたくさん集めるように命じます。
ヒメサユリは、
越後特産の花だったのです。
越後・
春日山にて知らせを受けた兼続は、早速ヒメサユリの花摘みを家臣たちに命じます。
越後の山々から摘み取られた、ヒメサユリの花々・・・
取りも取ったり、
春日山城に集められた花の数は1,200本。
これらを海路で、京・
聚楽第まで出荷したのです。
兼続が指示をし、忙しなく出荷の準備をしている光景を、景勝は半ば呆れ顔で見るしかありませんでした。
かくして1,200本のヒメサユリは、無事に聚楽第まで送り届けられました。
淀は、早速送られてきたヒメサユリを部屋一面に飾り付け、北政所以下皆を招待。 大名の奥方たちは淀の趣向を褒めそやします。
これには、さすがの北政所も舌を巻くしかありませんでした。
兎にも角にも、菊姫とお船の面目は保たれたのです。
数多くの秀吉の側室の中で、
豊臣の跡継ぎとなる
鶴松を産んだ淀に対し、奥方たちはますます取り入られていくのでした。
ところが天正19年8月、わずか3歳で鶴松が病死してしまいます。
鶴松の死に秀吉は嘆き悲しみ、甥の
豊臣秀次を養子として家督を譲り、
関白職まで譲って自らは
太閤となったのでした。
そして、悲しみを振り払うかのように
朝鮮出兵の野望を企み始めたのです。
一方の淀も、その悲しみは大きく、塞ぎ込む日々を過ごしていました。
もはや世継ぎの母でなくなった淀を、大名の奥方たちは気にかけなくなり、淀の孤独感はますます募っていったのです。
そんな淀に対し、菊姫は精一杯淀を励ますのです。
「自分も子が出来ずに悩んでいる・・・ でも塞ぎ込んでばかりいても何も始まらない・・・」 その一生懸命な心遣いに、淀の心は癒されいったのです。
明けて文禄元年(1592年)、秀吉は諸大名たちに朝鮮への出兵準備を命じます。 同年の3月、
上杉軍も出兵の準備のため京に入ります。
兼続とお船、そして景勝と菊姫・・・ 二組の夫婦は、それぞれに久しぶりの再会を喜び合います。 特に菊姫は、景勝が姿を現す前からそわそわしていて・・・ 菊姫の、景勝を慕う気持ちが表れた一面でもありました。
しかし景勝と兼続は、この朝鮮出兵に異議を抱いていました。
兼続は、秀吉側近・
石田三成のもとを訪ね、朝鮮出兵をやめるよう秀吉に進言したいと頼みますが、三成は拒みます。
秀吉の鶴の一声で、諸大名たちが馳せ参じる・・・ 豊臣政権を盤石にするためと言い張る三成に、兼続は引き下がるしか無かったのです。
一方で、北政所は景勝と
徳川家康に対し、秀吉自らが朝鮮に渡らぬよう監視して欲しいと頼み込みます。
秀吉を諌められるのは自分・・・ だが秀吉は、正室の自分ではなく淀を連れていこうとしている・・・
北政所は、豊臣の奥方として豊臣を守ることを二人に託したのです。
そして、上杉軍は
徳川軍などと共に
肥前・
名護屋城に布陣。
一年に渡る待機の後、秀吉から出兵の命が下りました。
「この戦は、女子(おなご)たちの花戦に似ている・・・」
景勝が、ぽつりと兼続に語りかけました。
「この戦に何の意味があるのか、意味の無い戦で無駄な血を流さなければならないのか・・・」
景勝と兼続は、虚しさを感じながらも無事に戻ってくることを誓い、朝鮮へと渡っていくのでした・・・
天下統一を果たし、泰平の世を迎えた矢先の朝鮮出兵・・・
秀吉のこの野心が、結果として豊臣政権を短命とするものになってしまいました。 実弟・
豊臣秀長、実子・鶴松の死など、不幸が重なったこともありますが、この朝鮮出兵は、景勝が吐いた言葉そのもので、何の意義があったのか計りかねるところです。
綺麗な花を豪華に敷き詰め、自己満足に浸ってもただそれだけのこと。
後に残るのは、虚しさだけ・・・
(特に秀長の死で)天下人・秀吉を、強く諌められる参謀が居なかったことが、致命的となってしまったのかもしれませんね・・・
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