大河ドラマ・天地人 第29回「天下統一」
NHK大河ドラマ・
天地人。
今週のOAは、第29回「天下統一」。
時は、天正18年(1590年)。
時の天下人・
豊臣秀吉は、ついに関東・
小田原へと出兵します。
北条氏政、
氏直父子に、再三再四上洛を促していたにも関わらず、一向にその気配を見せず、逆に戦の準備まで整えているといった状態に、秀吉は北条征伐を決意したのです。
徳川家康、
前田利家、そして
上杉景勝といった錚々たる武将の軍、そして、秀吉自らも直属の軍勢を率いて
小田原に陣を敷きます。
直江兼続も、景勝に従い
越後を出陣。
上杉軍は、途中
前田軍と合流し、手始めに
上野・
松井田城の攻略に掛かります。 持久戦の末、城主・
大道寺政繁が降伏。
その場での切腹を覚悟していた大道寺に対し、兼続は主・景勝の命と酒を振る舞います。
それを見ていた利家は、敵にも礼節を持って接するという上杉のやり方に、感服の意を見せていました。
その後、上杉、前田らの連合軍は北関東の城を次々と攻略していき、
八王子城にまで進軍していきました。
完全に小田原を包囲していた秀吉の本陣は、
石垣山に
石垣山一夜城を築城。
淀殿など妾たちも呼び寄せ連日のように宴を催し、自らの富と権力を見せつけていました。
小田原落城も時間の問題・・・ そんな中で秀吉は、未だ参陣してこない
伊達政宗に苛立ちを見せていました。
秀吉は、政宗を参陣させるよう家康に命じます。
北関東諸城の攻略の報を伝えるために、本陣まで赴いた兼続も、政宗に書状を送ります。
兼続からの書状を手にした政宗は、目を通しますが「くどいっ!」と一蹴。
一方で、家康からも書状が届き、そこには「参陣無用」と書かれていました。
あくまで無視を貫いていた政宗でしたが、家康の書状に含みがあると見抜き、一転して参陣を決意します。
もはや
伊達征伐もやむなし・・・ と秀吉が決意しかけた頃、本陣の秀吉の前に政宗が姿を現わします。
小田原攻めに遅参したわびと、秀吉に臣従する旨を、家康ほか重臣たちの前で宣言します。
政宗が身にまとっていたのは、白装束・・・
死をも決意しているという覚悟に、秀吉は「今少し遅ければ、ここがつながっておらなんだのう・・・」と太刀で首を叩き、政宗を許す意を示すのです。
結果、政宗は遅参の罪を
会津領没収という形だけで済ませたのです。
そして、政宗は帰国途中に兼続の陣に赴きます。
兼続は、臣従の意を示した政宗を素直に称えますが、「あくまで天下取りの足がかり」と政宗。
なおも兼続は、「戦の世は終わった・・・」と政宗を説くのですが・・・
そして、上杉、前田軍らは秀吉本陣に合流。
秀吉は、全軍が揃ったのを待っていたかのように、石垣山城を覆っていた森の木々を切り倒すように命じます。
突如、
小田原城の前に現れた強大な城。
それを目にした、氏政たちは驚愕・・・
北条軍は戦意を喪失し、敗戦を悟った氏政は自害、氏直は出家し
高野山へ送られることとなります。
ここに、北条家は滅亡・・・
その後の
奥州仕置を経て、ついに秀吉の天下統一が実現します。
長かった戦国の世が終焉し、平和な世が訪れたことを喜ぶ、景勝と兼続。
これが、つかの間の平和の世であったことなど、この時の二人には知る由も無かったでしょう・・・
この北条征伐でのキーマンとなるのは、やはり徳川家康。
表向きでは秀吉に臣従の意を見せ、今回の北条討伐においても重臣としての働きを見せながらも、裏では関東や東北の諸将らと結託する隙を窺っていたのです。
その中の一人、政宗が秀吉のもとへと参陣した時、家康はその野望が砕けたことを知るのです。
北条討伐の功績として、関東一円を新たな諸領として与えられた家康でありましたが、逆に
三河、
遠江などを返領することになり、結果として秀吉に関東へと追いやられた形になったのです。
これにより、家康は天下取りの野望を一時中断。 それが実を結ぶことになるまで、あと10年余の年月を数えることになるのです。
上杉、そして直江兼続にとっても運命の鍵となる
関ヶ原の戦いが、これより10年後に起こることになります・・・
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