遠州森のまつり・屋台編_1 「桑水社(下宿)」
遠州森のまつり・お祭り前の話題。
森のまつりの屋台編、第一弾は、「
桑水社(
下宿)」 です。
文中の絵 : 下宿・桑水社/鯉乗り仙人
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作
まずは、下宿という町名、それから、桑水社の社名の由来から。
現在の下宿町内会の地域は、古くは、森川橋から現在の下宿公会堂付近が下宿、長坂支店跡地から東側の通りが、下川原町と呼ばれていました。
明治22年、市制町村制施行の際、上記2町内に加え、五軒町、角屋新田(いずれも現在の栄町)、十七夜(栄町の
金守神社付近)、忠エ門新田(現在の南町)等の部落が合わさって、下宿という町が出来ました。
旧下川原町の通りは、車同士のすれ違いが出来ないほどの狭い道幅の通りですが、昔は鍛冶屋などもあり、古い風情が色濃く残る通りです。
お祭り3日目の還御での行列の進路でもあり、森のまつりではメイン通りの一つでもあります。
その後、昭和10年に国鉄・二俣線の遠江森駅(現在の天浜線・遠州森駅)が出来た際、栄町という町が出来、昭和59年、忠エ門新田付近の地域が栄町から分離独立し南町となり、現在の下宿は、元の下川原町と下宿の地域に戻った形になります。
昭和10年から61年までの約50年間は、桑水社は「下宿・栄町」として運営され、南町、栄町の分離独立までは、社員数、人の数も全社一でありました。
社名の由来は、昔、中国で大変な日照り続きで多くの人が死んでいったのだが、ある村だけは、一本の桑の葉に溜まった水滴を口に含んで喉の渇きを潤して人々が生き延びたという話しにあやかり、町内の子孫繁栄、無病息災を祈願して、「桑水社」と命名されたと伝わっています。
屋台は、現在の屋台で3代目。
森のまつりとして、江戸時代中期頃から屋台の曳き廻しはされていたかとは思いますが、現在のような形としての初代の屋台は、江戸末期に製作されていると伝わり、2代目の屋台は、明治26年から大正12年まで曳き廻されました。
この2代目の屋台、3代目の屋台新築の際、睦栄社(戸綿)に売却され、その後菊川へ売り渡されたのですが、未だ現役と聞いています。
そして、3代目が現在の屋台。
大正13年から90年近くも曳き廻されている、十四社中最古の屋台です。
この屋台が出来た当時は、大きさ、彫りの豪華さなど各社の中で随一で、その後の各社の屋台建築に影響を与えたとも言われています。
文中に掲載している、佐藤博志氏の絵に表わされているように、屋台正面の御簾脇には、右に亀乗り仙人、左に鯉乗り仙人の彫りが、左右の欄間と後欄間には桃太郎の絵物語の彫りが施されています。
屋台の特徴として、当初は高欄下の支輪も無く、漆塗りも高欄から欄干に至るまでほとんどが黒く塗られていて、「烏屋台」と呼ばれていた程でした。
他、屋台が動くたびに前後にぱたぱたと揺れる、六角形の格子柄で彩られた脇障子、そして、特筆すべきは車輪に漆塗りが施されていないこと。 これは、現在では十四社中、白木屋台が特徴の凱生社を除けば桑水社が唯一で、桑水社ならではの特徴と言えます。
昭和59年に、屋台が大改修され、その際には支輪も付けられて、漆も塗り直されましたが、高欄と欄干の色が黒から赤に変わり、豪華な雰囲気になったと同時に、それまでとは違った赴きになった印象があったことを覚えています。
平成11年には、前面の彫りが付け替えられ、重厚な雰囲気に様変わりし、支輪にも彫りが付けられて、他社の屋台と遜色の無い、豪華絢爛な屋台へと生まれ変わりました。
平成15年には、車輪も新しくしましたが、やはり塗りは施さず。 やっぱり、桑水社はこうでなければ・・・ 桑水社らしいと感じました。
以上、下宿・桑水社の屋台に関する事を記してきましたが、「
歴史編_2」でも書いたように、桑水社が「下宿・栄町」時代、子供の頃からこの屋台を曳いてきたので、この屋台への思い入れは、かなりあります。
歴史編と同じく、関係書物を参考にしたとはいえ独自視点での内容となりますので、確実性には欠けているかもしれませんので、下記の参考記事もご覧になってみてください。
遠州森のまつりまで、あと45日・・・
参考記事及び参考サイト
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「森のまつり」14町内の歴史“桑水社(下宿)”
◇
「森のまつり」14町内の屋台“桑水社”
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「森の祭り・ホームページ」内 「各町内の屋台・桑水社」
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