遠州森のまつり・屋台編_3 「沿海社(川原町)」

遠州森のビープロ

2011年09月24日 09:02

遠州森のまつり・お祭り前の話題。
森のまつりの屋台編、第三弾は、「沿海社川原町)」 です。

文中の絵 : 川原町・沿海社/どおどお
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作

まずは川原町という町名、それから、沿海社の社名の由来から。

川原町という町名のとおり、太田川沿いに位置する町ということで名付けられたかと思われ、非常に分かりやすい町名です。

江戸時代から明治初期までは、この川原町という町内は2つあって、現在の下宿の一部を下川原町、そして、現在の川原町が上川原町と呼ばれていました。

川原町は、元々職人の町で大工や車大工、彫刻師、漆職人、瓦職人などが軒を連ね、職人たちが腕を振るう、金槌や鑿(のみ)の音などで、通りは活気付いていたようです。
旧下川原町から三島神社下まで続く通りは、車同士のすれ違いも出来ないほどの狭い道ですが、前述したような風情が今でも色濃く残り、「桑水社編」でも紹介しましたが、お祭り3日目の還御での行列の進路でもあり、森のまつりでのメイン通りの一つとなっています。

社名の由来は、太田川に沿う町ということで、太田川を海に見立てて「沿海社」と名付けられたと伝わっています。
当時の太田川は水量も多く、「歴史編_1」でも紹介したように、古着商の商いの水路としても使われているほどのだったので、太田川を海に見立てるというのも頷ける気がします。

屋台は、現在の屋台が3代目。
初代の屋台の製作年は不明ですが、江戸末期頃であると推測され、2代目の屋台は明治19年に製作、大正15年まで曳き廻されました。
そして、3代目である現在の屋台は昭和2年に製作され、それから80余年もの間曳き廻されている、十四社中2番目に古い屋台です。

大正13年に、現在の桑水社の屋台が新築されましたが、そのわずか3年後、当時の屋台の中では一番豪華なものであった桑水社の屋台をしのぐほどの、豪華な屋台が新築されたのです。
私が子供の頃に、沿海社の屋台を観た印象としては、彫り物、塗りや金具の豪華さなどそれは豪華絢爛そのもので、当時の地元屋台・「下宿・栄町(桑水社)」の隣の町内であったので屋台同士が顔を合わせることも多く、そのたびに羨望の眼差しで沿海社の屋台を見つめていました。



昭和56年、屋台が大改修され、この際、支輪が大きく付け替えられ、そこに非常に重厚な彫りが付けられました。
この彫りを彫ったのは、福井・三国町の故・志村孝士氏。 森の屋台で、水哉社に続いて2番目の志村氏の作品が彩られることになったのです。
時代が前後しますが、昭和23年には脇障子にも彫りが施されています。
彫りの画題に関しては、以前に紹介した「14町内の屋台“沿海社”」に詳しく記載してありますので、興味のある方はご覧になってみてください。

こちらの屋台のもう一つの特徴として、屋台の前面及び左右側面の浜縁下(高欄の下側)に付けられていた蛍光灯が挙げられます。
夜間は、今ほど通りも明るくなかったので、この蛍光灯の灯りに彩られた屋台は、より一層豪華さを演出していました。
昭和56年に屋台が大改修されたため、この蛍光灯は姿を消しましたが、それを補って余りあるほど、沿海社の屋台はまたまた豪華に生まれ変ったのです。

以上、川原町・沿海社の屋台に関する事を記してきましたが、歴史編と同じく、関係書物を参考にしたとはいえ独自視点での内容となりますので、確実性には欠けているかもしれませんので、下記の参考記事もご覧になって下さい。

遠州森のまつりまで、あと41日・・・


参考記事及び参考サイト

「森のまつり」14町内の歴史“沿海社(川原町)”
「森のまつり」14町内の屋台“沿海社”
「森の祭り・ホームページ」内 「各町内の屋台・沿海社」
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