遠州森のまつり・歴史編_1
遠州森のまつり・お祭り前の話題。
今回から2回シリーズで、森のまつりの歴史について、触れていきたいと思います。
文中の絵 : 屋台遊び 森の石松
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作
森のまつりが、現在のような形で行なわれるようになったのは、江戸時代中期頃からと言われていますが、元々は、森町中心部にある「
三島神社」の氏神様を祀るもので、その年の豊作の御礼、翌年の五穀豊穣を祈願しての神事として行なわれていて、その歴史は平安の世の頃からだと言われています。
前述したように、江戸時代中期頃になると、現在のように屋台が町内を曳き廻されるという、祭事が加わって、お祭りは年に一度の町民の無二の楽しみになっていったのです。
江戸時代中期と言えば、「元禄文化」が栄えた頃でもあり、世の中が安定し始め庶民にも余裕が出てきた頃で、「弥次喜多・道中」にもあるように旅が流行り始め、旅の目的地の一つ、「秋葉山」に向かう多くの旅人が、その道中で森町に立ち寄っていったのです。
その頃から、森町は宿場町、古着の町として発展し始め、沿岸を流れる太田川は、古着商たちの貿易路として使われ、陸路、水路共に大いに発展し、「遠州の富の半分は森町にある」とまで言われ、「蓮華寺」、「西光寺」、「三島神社」、「天宮神社」などの古い寺社が町並みに融合していることから、「遠州の小京都」と呼ばれた程でした。
そんな時代、江戸・浅草の「三社祭り」や「神田祭り」などのお囃子が、「遠州横須賀」経由で伝えられ、大八車に囲いを付けて太鼓を乗せ、お囃子を奏でながら曳き廻す・・・ 今の屋台の原型が出来上がったのです。
こうして、森のまつりは「文久の大喧嘩」などの事件、事故、紆余曲折を経て、現在の形式になっていきました。
前述のように、森のまつりは「三島神社・御祭禮」として行なわれていて、屋台の曳き廻しも、当初は「
本町(
水哉社)」、「
下宿(
桑水社)」、「
川原町(
沿海社)」、「
仲町(
比雲社)」、「
新町(
北街社)」の五社のみで行なわれていました。
そして、時代は江戸から明治へと移り、新たに出来た町内・「
明治町(
明開社)」が参加、「市制町村制施行」で「旧森町村」から「旧森町」となった明治22年前後、合併した「
城下(
谷本社)」、続いて「
天宮(
凱生社)」と二町内が加入、それからしばらくの期間、八社での曳き廻しが続きましたが、大正末期には「
戸綿(
睦栄社)」、昭和初期に「
向天方(
慶雲社)」がそれぞれ加入し、十社での屋台曳き廻しが、それから約50年間行なわれてきました。
その間、各社屋台は新築や修復を繰り返し、昭和初期の時代からは一回りほど大きく豪華な屋台へと転身していき、現在のような豪華絢爛な屋台が観られるようになっていったのです。
当時、三島神社の御祭禮というのが名目でありながら、年に一度の町民の無礼講祭りという色が濃かった森のまつり。 それを統括するべく、各社には「社長」以下「統制責任者」を置き、毎年持ち回りで「大當番」を担当、そして、三島神社の「氏子六社」(比雲社・北街社・明開社・水哉社・桑水社・沿海社)は、大當番に加えて「年番」を担当するようになり、現在の元になる組織が出来上がりました。
昭和に入ってからの戦争の激化、そして敗戦と、終戦までは、お祭りの存続は危ぶまれ、昭和12年には開催中止、それ以降も、自粛ムードの中での開催だったようです。
終戦後、お祭りは盛大に復活したのですが、現在のように厳格な規定も定められてはおらず、警察の指導も甘かったこともあって、やりたい放題の時期がしばらくの間続いていました。
歴史編_2 へ続く・・・
遠州森のまつりまで、あと48日・・・
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