「森のまつり」14町内の歴史“比雲社(仲横町)”

遠州森のビープロ

2006年02月13日 23:03

森のまつり、「14町内の歴史」紹介、しんがり(第14弾)は、“比雲社”(仲横町町内会)です。

周智郡太田郷森町村の、村名の由来を探ってみよう。

古くより氏神三嶋大明神が鎮座しており、この山を宮山、又は宮森と称されていた。
氏神様を信仰する人々がこの宮森の下に住み始め、次第に町が形成されて森町村となったと考えられているのである。

中町という町名が付けられたのは江戸時代初期であるが、戦国末期にはすでに物資の売買や交換の市場が開かれており、中町には古着商をはじめ、数多くの商家が古くからあったという。

ではここで中町を繁栄させた3人の男を紹介したい。
戦国末期、徳川家康が遠州一之瀬出陣の折、浜松への帰城の道案内をし、小牧の陣においては軍用を勤め、その褒美として駿遠両国鋳物師惣大工職の朱印状を家康から与えられた男、山田七郎左衡門である。
七郎左衝門の屋敷は中町通りから三嶋神社へ入る道の右側一帯にあった。
七郎左衡門はここを拠点として駿河、遠州地方を支配したのである。山田家の文書によれば七郎左衡門の妹が家康の側室になったという。
茶阿局(ちゃあのつぼね)がその人であり、後に上総介忠輝の生母となっている。

時代は下り明治時代、中町に鈴木屋という小さな駄菓子屋があった。
鈴木屋には子が無く本町の太田文四郎より養子を迎え、幼名を才助といった。
後の鈴木藤三郎である。
藤三郎は氷砂塘を発明して我国の産業革命に功績を残し、日本製糖会社を起こした男である。
更に、この鈴木藤三郎を積極的に援助して、藤三郎と共に周智高校を設立し、明治38年には森町長を努めた男、福川泉吾である。
福川家は相当な旧家であり、代々五郎右エ門と名乗って古着、太物商を営んでいた。

中町は本町、新町と共に大繁盛した町であり、多くの偉人を生んだ町である。

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こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。
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