「森のまつり」14町内の屋台“鳳雲社”

遠州森のビープロ

2006年02月01日 17:30

森のまつり、「14町内の屋台」紹介、第12弾は、“鳳雲社”(大門町内会)です。

昭和55年、水哉社屋台新築に伴い、旧屋台を譲り受けて、初めて鳳雲社として屋台を引き回すこととなった。
水哉社の旧屋台といえば、大正11年の製作であり、かなり老朽化した小さな屋台であった。
鳳雲社はその屋台を初代屋台として大事にかつ我慢しつつ、10年間も引き続けている。
そして平成元年ついに現在のすばらしい屋台が完成した。



戸数が少ないがために屋台を持つことが出来ず、くやしい思いをしてきた町内が新屋台の完成を見た時の感激は町内の者でなければ分かるまい。
その大門が現在では戸数なんと278戸を数える森町第4位の大世帯に成長しているのである。

では、大門町民の総力を結集した屋台をご紹介しよう。屋台本体は、町内の棟梁・森下伸之がその卓越した工匠技術を遺憾無く発揮した懸命の作であり、力強く、しかも均整と調和のとれた見事な屋台である。

彫刻は富山県井浪の彫刻師・吉江立最が1年の歳月を費した入魂の作である。
そしてその彫刻の檜材がすごい。なんと小国神社の御神木を使用しているのだ。
先ずは正面欄間に鳳凰がいる。これは雄だろうか?それとも雌だろうか?
ここに鳳凰を配しているのは他に桑水社と沿海社があるが、普通鳳凰は、鳳が雄で凰が雌であり、2羽一対をなしている。
ところが鳳雲社の正面欄間には1羽しかいない。
鳳雲社の社名からとって“鳳”という瑞鳥1羽。つまりあの鳥は雄である。

左右の御簾脇には風神雷神がおり、文字通り風の神と雷の神である。 
昔から人々が台風や雷雨は神の怒りであると考え、神をたてまつり、敬うことによって災難をまぬがれようとしてきた。
従って風神雷神は守り神として屋台彫刻に使われることが多く、北街社の御簾脇には先代の屋台より風神雷神を継承している。
鳳雲社の場合は凰神雷神の顔に特徴がある。京都市東山区、三十三問堂にある二十八部衆像の顔をその手本としているのだ。
仏像好きな人なら思わず手を合わせたくなるようないい頗をしている。
ちなみに東京浅草寺の大門には風神雷神像が置かれている。だから“雷門”というのだ。
どうも大門には風神雷神が似合うようである。 (余談)
更に彫刻の説明はつづく。左右の欄間には龍虎、後欄間には親子唐獅子と牡丹が配されている。
この親獅子の持つ玉は中が動くようになっており、いわゆる“篭彫り”の技巧が凝らされている。
そして支輪には七福神と14人の唐子を配し、それぞれの表情が実にいい。
また支輪中央には“茶の町”の象徴として“お茶をそそぐ唐子”が彫られ、彫刻師の気配りを感じる。
越中富山の天才、吉江立最の見事な作品である。それにしてもなぜ北陸には天才と云われる彫刻師が多いのだろうか?
昔から北陸には農業従事者と大工などの職人が多い。
ところが冬になると雪が深く、大工たちは仕事がない為に、彫刻を彫り出したというわけである。
“自然が生んだ天才”といったら言い過ぎだろうか。

最後に鳳雲社屋台最大の特徴をご紹介しよう。それは車輪である。
通常屋台の車輪は8枚の輪板を組み合わせた”大入車”であるが、鳳雲社の車輪は7枚の輪板で構成された“大七車”である。
8枚の板は数で割れるが、7枚の板は数で割れない。
つまりそれだけ頑丈に出来ており、その製作には相当の技術がいるという。
森町が生んだ名車大工3代目角千代・村松利雄が精魂を込めた最後の作品である。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“北街社”(新町町内会)の紹介です。
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