「森のまつり」14町内の歴史“慶雲社(向天方)”

遠州森のビープロ

2006年01月23日 22:10

森のまつり、「14町内の歴史」紹介、第10弾は、“慶雲社”(向天方町内会)です。

天方城は従来、森町向天方字ニツ沢に位置している天方城のみを指していたが、近年郷土史の研究が進み、天方城と大鳥居本城山にあった天方本城、そして谷本神社頂上の城薮に接続する白山城(仮称)を総称して「天方城」と考える必要があるとされてきた。
天方本城は室町時代に築城され、続いて出城として白山城、そして武田徳川の攻防に備えて天方城を築いたと思われる。

後に天方本城の川向いということで向天方と称されるようになったのであろう。

天方城の合戦は永禄12年(1569年)6月19日である。
天方城主天方山城守通綱もよく抗戦し、徳川の勇士天野康景に重傷を負わせているがついに力尽きて降伏し、家康はこれを許している。
更に天正2年(1574年)4月6日、家康は犬居城主天野景貫を討つために出陣したが攻めきれず、退却する途中天野軍の追撃に会い早々に天方城へ馬で逃げ込んでいる。

家康があの城が平までの山道を馬でかけ登ったのだ。
森町の人なら1度は登ったことがあるであろうこの道を、400年前に家康が登ったと思うとなぜかうれしい。

天方城の下には宝太寺があり、隣接する墓地内に天万氏一族の墓がある。
更に天方神社も慶長元年(1597年)現在地に祭祠され、御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。
明治初期廃佛棄釈の制令で明治7年、天宮神社々内に遷坐したが、明治12年に複社している。

社名の由来は古文書等の資料もなく、文武天皇時代の年号「慶雲」に因んで付けられたのではないかというが、詳細は不明である。
実は社名については新しく出来た社(龍生社、鳳雲社、湧水社、藤雲社)以外は、正確にはわかっていない。
いつ頃から社と称したかもわかっておらず、江戸時代の数少ない資料に町名は載っているが社名は載っていない。
おそらく社として祭礼を執り行うようになったのは明治以降であろう。
睦栄社が初めて屋台を所有したのは大正14年であるが、社の設立は明治36年である。

慶雲社も昭和2年に初代屋台を新築しているが、それ以前にも荷車的屋台を引き回していたことは先の大当番記録で立証されており、社の設立年は不詳ながら相当古くからおはやしを中心に天方神社の祭礼を行っていたことは確かである。

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“藤雲社”(栄町町内会)の紹介です。
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