「森のまつり」14町内の屋台“凱生社”

遠州森のビープロ

2006年01月04日 06:46

森のまつり、「14町内の屋台」紹介、第4弾は、“凱生社”(天宮町内会)です。

天宮の森の祭りへの参加は明治23年、突然借りて釆た屋台を引き始めたことからはじまる。

三島神社に比べ格式の高い天宮神社は一諸に祭りをやるわけにはいかなかったが、明治22年の市制町村制によって森町村と合併し、これを機会に翌明治23年から祭りに参加したというわけである。



初代屋台は明治28年~39年の間に造られ、日清、日露戦争における日本国軍の諸国凱旋にちなみ”凱生社”と名什けたのであるが、その正確な屋台の製作年はわからない。
(現在菊川で活躍中)

現在の屋台は2代目。第2次屋台新築期(大正11年~昭和11年)に造られた最後にして最高の傑作である。
昭和11年、天宮の工匠鈴木大吉、松浦定吉、松浦憲次郎、山本一太郎らの手によって造られ、彫りは岡崎の彫刻師中山由太郎政勝の作品であり、「花鳥」を彫らせたら東海道一の名人といわれた男である。

重量感あふれる屋台に、今にも飛び出して来そうな彫りがびっしりと埋っている。この屋台の完成時、その大きさとおそろしいまでの威圧感に他の町内の人々は度肝を抜かれたという。
昭和53年から第3次屋台新築期がはじまり、各社、凱生社の屋台を目標に次々と新築したが、未だこの屋台を越えるものはない。

それでは中山由太郎政勝の作品を紹介しよう。
先ずは正面欄間に牛若丸と天狗。
右の御簾脇には大国主命(おおくにぬしのみこと)、左の御簾脇には素戔嗚尊(すさのおのみこと)がいる。左右の脇障子には獅子の子落とし、右欄間には獅子に牡丹、ぐるりと支輪には得意の花鳥が彫られている。

浜緑下(高欄の下の板)にまで八つの宝づくしの彫りが入っており、ここに彫りのあるのは凱生社と慶雲社だけの特徴である。
そして支輪の四ツ角には力神が四方を見すえて座っている。この力強さがこの屋台を更に引き立てている。

彫りが多すぎて全部紹介出来ないのが残念だが、最後に左欄間の彫りに注目してみよう。

龍虎であるが、この龍どこかで見た事ないか?
そう天宮が生んだ天才凧師、政雄サァ(本名・藤原政雄)の描いた龍に似ている。
実は、この彫りの下絵を描いたのが政雄サァというから驚きだ。
こんなところにもこの屋台の特徴が隠されている。

そして最大の特徴といえば、14社中ただ1社の白無垢の屋台という事である。
なぜ漆を塗らないのだろうか?

昔、凱生社の屋台に漆を塗ったところ、火災を起こし、燃えてしまったという。
天宮神社の御神木で造られている屋台に色をつけた為に、神様の怒りをかってしまったというのだ。
ところがこの話はどうも作り話らしい。
それが証拠に先代の屋台は今とは全く逆で真黒に漆を塗られ烏屋台といわれた程である。

では本当の理由は何なのだろうか?それは戦争が原因であったのである。
凱生社の屋台は昭和11年に製作された。

通常であればその2、3年後に漆を塗るはずであるが、翌昭和12年、日中戦争が始ってしまい、明治以降1度も中止される事のなかった屋台の引き回しがこの年中止と決定されている。
当時国産の漆は高価であった為、中国と朝鮮からの輸入に頼っていたがその輸入が途絶えてしまった為に、漆を塗りたくても塗れなかったというのが本当の理由である。

戦後何度も漆を塗ろうかという話が持ち上がったが「白無垢が凱生社の屋台だ」の意見が強く、今でも漆を塗らないというわけである。
普通漆を塗らないと木にひびが入ったり、割れたりしてしまうものだが、この屋台にひびは入っていない。
天宮神社の御神木には、不思議な力があるのだろう。

地図はこちら

こちらの紹介文は、“森の祭り”ホームページから引用、著作権は、大庭学氏(森町・下宿出身)が有しております。

次回は、“睦栄社”(戸綿町内会)の紹介です。
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