2011年10月26日
遠州森のまつり・屋台編_12 「龍生社(西幸町)」
遠州森のまつり・お祭り前の話題。
森のまつりの屋台編、第十二弾は、「龍生社(西幸町)」 です。
文中の絵 : 西幸町・龍生社/加藤清正
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作
まずは西幸町という町名、それから、龍生社の社名の由来から。
昭和47年、県営住宅団地が造成され、翌昭和48年、住宅建築が始まり新しい町「西幸町」が誕生しました。
西に位置する町ということから、町民の幸せを願って名付けられた、十四町内のうち2番目に新しい町です。
町の誕生当時は、まだ屋台は無く、町内の若衆は他の町内に仲間入りして祭典に参加しており、子供たちに至っては、他町内への参加も出来ずにいました。
そんな経緯から、屋台の建設に関する気運が高まっていき、町内誕生から7年後の昭和55年、龍生社の屋台が落成されました。
社名の由来は、龍が生まれて天に昇るが如く、昇天の勢いで発展することを願い命名されました。
この年、鳳雲社(大門)、そして龍生社の二社が新たに加わり、森のまつりは十二社の町内の屋台が参加する形になりました。
屋台の落成当初は、彫りも満足に付けられておらず、白木屋台に提灯が付けられただけのものでしたが、町民たちは、この屋台を町内のシンボルとして大切に曳き廻していきました。
昭和58年までは、塗りは施さない白木屋台のままで通し、その間に少しずつ彫りが施されていき、昭和59年に待望の塗りが完了して、名実ともに龍生社屋台の落慶をみるに至りました。
森のまつりの屋台編、第十二弾は、「龍生社(西幸町)」 です。
文中の絵 : 西幸町・龍生社/加藤清正
森町・下宿「佐藤看板店」 : 佐藤博志氏作
まずは西幸町という町名、それから、龍生社の社名の由来から。
昭和47年、県営住宅団地が造成され、翌昭和48年、住宅建築が始まり新しい町「西幸町」が誕生しました。
西に位置する町ということから、町民の幸せを願って名付けられた、十四町内のうち2番目に新しい町です。
町の誕生当時は、まだ屋台は無く、町内の若衆は他の町内に仲間入りして祭典に参加しており、子供たちに至っては、他町内への参加も出来ずにいました。
そんな経緯から、屋台の建設に関する気運が高まっていき、町内誕生から7年後の昭和55年、龍生社の屋台が落成されました。
社名の由来は、龍が生まれて天に昇るが如く、昇天の勢いで発展することを願い命名されました。
この年、鳳雲社(大門)、そして龍生社の二社が新たに加わり、森のまつりは十二社の町内の屋台が参加する形になりました。
屋台の落成当初は、彫りも満足に付けられておらず、白木屋台に提灯が付けられただけのものでしたが、町民たちは、この屋台を町内のシンボルとして大切に曳き廻していきました。
昭和58年までは、塗りは施さない白木屋台のままで通し、その間に少しずつ彫りが施されていき、昭和59年に待望の塗りが完了して、名実ともに龍生社屋台の落慶をみるに至りました。
そんな、龍生社が誇るこちらの屋台、他社の屋台に比べて細身の屋台ではありますが、なぜか、ひと際豪華に見えます。
その理由は、高欄下の支輪にあります。 龍生社の支輪は、他社の屋台に比べて大きく組まれて造られており、必然的に高欄も大きく造られることになり、明開社(明治町)の屋台に似た、細身な屋台が特徴の龍生社が、豪華な屋台である所以であります。
もう一つ、この屋台の特徴を挙げると、それは細かい仕上がりの彫刻。
前述のように、明開社に似た屋台というのは、そこにもあり、重厚な彫りで彩られている屋台が多い中、明開社、そして、この龍生社の屋台は、細かな仕上がりの彫刻で彩られています。
近年に製作された屋台は、彫刻の損傷を恐れて厚みのある仕上がりになっていますが、昭和初期の当時は、明開社の彫りのように、細かい仕上がりが主流でありました。 龍生社の屋台は、当時主流であったものを豪華に再現した、そんな屋台だと言えます。
前述した支輪の特徴や、彫りの画材など、屋台の特徴に関しては、「14町内の屋台“龍生社”」に詳しく記載してありますが、龍生社の屋台の彫りには、楠木正成、新田義貞、そして、文中の佐藤博志氏の絵にもある、加藤清正などが描かれていて、彫刻の画材だけでも楽しませてくれるものとなっています。
それから、これは屋台の特徴ではありませんが、龍生社の名物として挙げておきたいのが、御渡り(渡御・還御)の曳き廻しの際に披露される、「黄門ちゃま世直し旅」。 これは、町内の小学生が黄門様、助さん・格さんに扮して屋台の欄干に乗るというもので、藤雲社(栄町)の「おかめ・ひょっとこ」と並び評される、龍生社名物であり、観客から「かわいい~!」の歓声がいつも響きます。
前回の、「大門(鳳雲社)」の際にも記載しましたが、「大門」、「西幸町」、「南町」の3町内は、三島神社の氏子町内でありながら、御渡り(渡御・還御)の経路には含まれておりません。
そうした経緯から、平成17年度の祭典から「御巡幸祭」が設けられ、この際に上記3町内にも御神輿の行列が成されるようになりました。
以上、西幸町・龍生社の屋台に関する事を記してきましたが、歴史編と同じく、関係書物を参考にしたとはいえ独自視点での内容となりますので、確実性には欠けているかもしれませんので、下記の参考記事もご覧になって下さい。
遠州森のまつりまで、あと9日・・・
参考記事及び参考サイト
◇「森のまつり」14町内の歴史“龍生社(西幸町)”
◇「森のまつり」14町内の屋台“龍生社”
◇「森の祭り・ホームページ」内 「各町内の屋台・龍生社」
その理由は、高欄下の支輪にあります。 龍生社の支輪は、他社の屋台に比べて大きく組まれて造られており、必然的に高欄も大きく造られることになり、明開社(明治町)の屋台に似た、細身な屋台が特徴の龍生社が、豪華な屋台である所以であります。
もう一つ、この屋台の特徴を挙げると、それは細かい仕上がりの彫刻。
前述のように、明開社に似た屋台というのは、そこにもあり、重厚な彫りで彩られている屋台が多い中、明開社、そして、この龍生社の屋台は、細かな仕上がりの彫刻で彩られています。
近年に製作された屋台は、彫刻の損傷を恐れて厚みのある仕上がりになっていますが、昭和初期の当時は、明開社の彫りのように、細かい仕上がりが主流でありました。 龍生社の屋台は、当時主流であったものを豪華に再現した、そんな屋台だと言えます。
前述した支輪の特徴や、彫りの画材など、屋台の特徴に関しては、「14町内の屋台“龍生社”」に詳しく記載してありますが、龍生社の屋台の彫りには、楠木正成、新田義貞、そして、文中の佐藤博志氏の絵にもある、加藤清正などが描かれていて、彫刻の画材だけでも楽しませてくれるものとなっています。
それから、これは屋台の特徴ではありませんが、龍生社の名物として挙げておきたいのが、御渡り(渡御・還御)の曳き廻しの際に披露される、「黄門ちゃま世直し旅」。 これは、町内の小学生が黄門様、助さん・格さんに扮して屋台の欄干に乗るというもので、藤雲社(栄町)の「おかめ・ひょっとこ」と並び評される、龍生社名物であり、観客から「かわいい~!」の歓声がいつも響きます。
前回の、「大門(鳳雲社)」の際にも記載しましたが、「大門」、「西幸町」、「南町」の3町内は、三島神社の氏子町内でありながら、御渡り(渡御・還御)の経路には含まれておりません。
そうした経緯から、平成17年度の祭典から「御巡幸祭」が設けられ、この際に上記3町内にも御神輿の行列が成されるようになりました。
以上、西幸町・龍生社の屋台に関する事を記してきましたが、歴史編と同じく、関係書物を参考にしたとはいえ独自視点での内容となりますので、確実性には欠けているかもしれませんので、下記の参考記事もご覧になって下さい。
遠州森のまつりまで、あと9日・・・
参考記事及び参考サイト
◇「森のまつり」14町内の歴史“龍生社(西幸町)”
◇「森のまつり」14町内の屋台“龍生社”
◇「森の祭り・ホームページ」内 「各町内の屋台・龍生社」
Posted by 遠州森のビープロ at 09:45
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